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中沢三夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中沢 三夫
生誕 1891年(明治24年)11月23日
日本の旗 日本 山梨県
死没 1980年(昭和55年)11月29日
所属組織 日本陸軍
軍歴 1912年(明治45年) - 1945年(昭和20年)
最終階級 陸軍中将
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中沢 三夫(なかざわ みつお、1891年11月23日 - 1980年11月29日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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山梨県出身。農業・中沢勘四郎の三男として生まれる。日川中学校名古屋陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1912年明治45年)5月陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第50連隊付となる。1920年大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業。

参謀本部付勤務、参謀本部員などを歴任し、1922年(大正11年)4月から翌年3月まで陸軍委託学生として東京外国語学校ドイツ語を学んだ。1923年(大正12年)7月、ドイツに留学。1924年大正13年)5月、参謀本部付となり、参謀本部員、陸大教官、歩兵第44連隊付、陸士教官、参謀本部員(戦史課)などを経て、1936年(昭和11年)3月、歩兵大佐に昇進し歩兵第18連隊長に就任。日中戦争第16師団参謀長として出征し、南京攻略戦武漢作戦に参加した。1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級。陸軍予科士官学校幹事を経て、1941年(昭和16年)10月、陸軍中将となり第1師団長に親補され満州に駐屯した。

1944年(昭和19年)3月、予科士官学校長に就任。さらに第40軍司令官となり鹿児島県伊集院本土決戦に備えたが終戦を迎えた。1945年(昭和20年)12月に予備役編入となった。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

栄典

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外国勲章佩用允許

親族

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脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」106頁。
  2. ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
  3. ^ 佐藤徳外十六名外国勲章記章受領及佩用允許の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113504000 

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。