コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

中村隆治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中村 隆治(なかむら りゅうじ、1882年明治15年〉5月7日 - 1943年昭和18年〉4月9日)は、日本精神科医精神医学者。医学博士新潟医学専門学校精神病学教室初代教授。新潟医科大学名誉教授。位階正三位

略歴

[編集]

新潟県北蒲原郡水原町上町(現 阿賀野市中央町)の老舗・中村新吉菓子店の次男として出生[1][2][3]

1901年明治34年)3月に新潟中学校を卒業、1904年(明治37年)7月に第一高等学校を卒業、1907年(明治40年)10月に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修)を卒業。

妹の病気を治療するために東京帝国大学医科大学医学科に入学、1911年(明治44年)12月に同大学を卒業[注 1]、妹の病気を治療した[3]

1912年(明治45年)1月に東京帝国大学医科大学精神病学教室精神病学講座(担任:呉秀三教授)副手に就任、1913年大正2年)1月から東京府巣鴨病院医員を兼任[注 2]

1914年(大正3年)4月に新潟医学専門学校精神病学教室講師に就任、新潟医学専門学校附属医院精神科医長に就任。

1916年(大正5年)2月に新潟医学専門学校精神病学教室初代教授に就任、1921年(大正10年)2月からスイスドイツフランスアメリカに留学[注 3]1923年(大正12年)6月に帰国。

1923年(大正12年)6月に新潟医科大学精神病学教室教授に就任、1930年昭和5年)9月からオランダ領東インド諸島ブラジルアルゼンチンヨーロッパに出張、同年12月に帰国。

1933年(昭和8年)12月に林道倫斎藤玉男植松七九郎内村祐之たちとともに、日本の精神病学を世界に伝えるために欧文精神医学神経学雑誌『Folia Psychiatrica et Neurologica Japonica』を創刊[6][7][8][9][10][11]

1934年(昭和9年)5月1日から1939年(昭和14年)4月30日までの満5年間、『新潟新聞』、『新潟毎日新聞』、『東京朝日新聞』、『東京日日新聞』の自殺の記事を分析[12]

1935年(昭和10年)4月に新潟で第34回日本神経学会総会を主催、総会で日本神経学会が日本精神神経学会に改称された[6][7][9][11]

1936年(昭和11年)7月に新潟医科大学附属医院第5代医院長に就任、1940年(昭和15年)10月に医院長を退任、新潟医科大学精神病学教室教授と同大学臨時附属医学専門部講師を兼任。

1942年(昭和17年)9月に新潟医科大学を依願退官[注 4]1943年(昭和18年)1月に勅令第143号官立医科大学官制第21条により勅旨をもって新潟医科大学名誉教授の称号を授けられた。

1943年(昭和18年)4月9日午後4時に脳溢血気管支肺炎のため死去、葬儀は新潟市西堀通6番町(現 新潟市中央区西堀通6番町)の本覚寺で執り行われた[13]

名誉欲がないために学位を請求することがなく、晩年、1943年(昭和18年)2月に新潟医科大学から医学博士号を贈られても使用することはなかった[3]

謙虚で穏やかな人柄で真心を持って人に接し[2][3][7][12][注 5]、人情に厚く思いやりがあって陰から人を援助していた。私的に精神障害児や知的障害児の保護事業や患者の保護事業のための募金活動などを推進していた[7][9][12][15]

病理組織学脳脊髄液膠質反応、進行麻痺てんかん精神病などの研究や、犯罪者と自殺者の精神医学的研究で業績を上げた[7][9][11][12][16]

栄典・表彰

[編集]

門下生

[編集]

友人

[編集]
  • 会津八一 - 歌人美術史家書家。中村隆治が退官したときの写真の裏面には、「友人 中村隆治君 秋艸道人」という会津八一の自筆の書が書かれている[10]
  • 斎藤茂吉 - 歌人、精神科医精神医学者。斎藤茂吉から会津八一への手紙には、「越後の中村隆治敎授よりも書面あり、同門の友情溢るゝが如くうれしくよみ候事に御座候」と書かれている[20]

家族・親戚

[編集]

著作物

[編集]

著書

[編集]

主な論文

[編集]
  • 「日本人ノ後頭葉ニ就テ」『神經學雜誌』第13巻第1号、18-23頁、林道倫[共著]、日本神経学会、1914年。
  • 「日本人ノ後頭葉ニ就テ(承前)」『神經學雜誌』第13巻第2号、83-90頁、林道倫[共著]、日本神経学会、1914年。
  • 麻痹性癡呆ノ「サルヴアルサン」療法ニ就テ」『北越醫學會雜誌』第31年第4号、347-354頁、北越医学会[編]、北越医学会、1916年。
  • 「麻痹性癡呆ノ「サルヴアルサン」血淸療法(豫報)」『北越醫學會雜誌』第31年第6号、487-501頁、島村司[共著]、北越医学会[編]、北越医学会、1916年。
  • 癲癇精神病」『北越醫學會雜誌』第32年第3号、256-260頁、北越医学会[編]、北越医学会、1917年。
  • 「麻痹性癡呆ニ對スル腦脊髓液ノ診斷的價値(十六表)」『北越醫學會雜誌』第33年第6号、529-546頁、島村司[共著]、北越医学会[編]、北越医学会、1918年。
  • 「放火犯被吿人○山○吉精神狀態鑑定書」『北越醫學會雜誌』第34年第2号、153-171頁、北越医学会[編]、北越医学会、1919年。
  • 早發性癡呆(單一性抑鬱癡呆ノ衝動行爲)」『北越醫學會雜誌』第35年第4号、273-280頁、北越医学会[編]、北越医学会、1920年。
  • 「自殺に就て」『新潟醫學專門學校 通俗學術講演集』93-101頁、新潟医科大学附属医学専門部 攻瑶会[編]、新潟医科大学附属医学専門部 攻瑶会、1922年。
  • 「犯罪者ノ精神硏究 第一回報吿 智能ニ關スル硏究」『北越醫學會雜誌』第43年第6号、1089-1110頁、式場隆三郎[共著]、北越医学会[編]、北越医学会、1928年。
  • 「犯罪者ノ精神硏究 第二回報吿 性能ニ關スル硏究」『北越醫學會雜誌』第44年第1号、59-80頁、式場隆三郎[共著]、北越医学会[編]、北越医学会、1929年。
  • 「犯罪者ノ精神硏究 (第三回報吿 聯想、注意力、道德的判斷、構成能力、視觸覺辨別力ニ關スル硏究)」『北越醫學會雜誌』第44年第2号、312-432頁、式場隆三郎[共著]、北越医学会[編]、北越医学会、1929年。
    • 「犯罪者ノ精神硏究 第一回報吿 智能ニ關スル硏究」『新潟醫科大學研究報告』第1巻第2号、130-151頁、式場隆三郎[共著]、新潟医科大学[編]、新潟医科大学、1928年。
    • 「犯罪者ノ精神硏究 第二回報吿 性能ニ關スル硏究」『新潟醫科大學研究報告』第2巻第1号、59-80頁、式場隆三郎[共著]、新潟医科大学[編]、新潟医科大学、1929年。
    • 「犯罪者ノ精神硏究 (第三回報吿 聯想、注意力、道德的判斷、構成能力、視觸覺辨別力ニ關スル硏究)」『新潟醫科大學研究報告』第2巻第1号、284-404頁、式場隆三郎[共著]、新潟医科大学[編]、新潟医科大学、1929年。
  • 「犯罪者及常人の道德判斷に就て」『心理學論文集 II: 第二回大會報吿』296-300頁、式場隆三郎[共著]、日本心理学会[編]、岩波書店、1929年。
  • 酒精中毒の小實驗」『松本亦太郎博士在職二十五年記念 心理學及藝術の硏究 下卷』1519-1547頁、桑田芳蔵・ほか[編]、改造社、1931年。
  • 「犯罪と精神病」『新潟醫科大學 通俗學術講演集 第二輯』40-46頁、新潟医科大学[編]、新潟医科大学、1931年。
  • 麻痺性癡呆(又ハ進行性麻痺 Dementia paralytica od. Progressive Paralyse)ノMalaria療法ニ就テ」『北越醫學會雜誌』第47年第11号、1141-1144頁、北越医学会[編]、北越医学会、1932年。
  • 「病的酩酊ノ一例」『北越醫學會雜誌』第51年第2号、172-178頁、北越医学会[編]、北越医学会、1936年。
  • Huntington舞踏病及ビ其精神病」『北越醫學會雜誌』第53年第3号、294-299頁、北越医学会[編]、北越医学会、1938年。
  • 精神醫學から觀たる自殺の新聞記事」『新潟醫科大學精神病學敎室業績 第二輯 敎室創立二十五年 記念論文集』315-377頁、新潟医科大学精神病学教室[編]、新潟医科大学精神病学教室、1941年。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 1909年明治42年)6月の第1期医学科試験に合格、1911年(明治44年)7月に医学科の全課程を修了、同年9月から12月まで実施された第2期医学科試験に合格して医師免許を取得、1912年(明治45年)7月10日の「卒業證書授與式」で卒業証書を受領。
  2. ^ 1913年大正2年)1月31日に東京府巣鴨病院の医員になった中村隆治は、同僚の斎藤茂吉に説得されて斎藤茂吉の代わりに外来・入院患者のワッセルマン反応を調べる係になった[4]
  3. ^ 1921年(大正10年)12月26日にベルリンで中村隆治は斎藤茂吉にケンピンスキーの料理をおごった。また、中村隆治は斎藤茂吉から、ハンブルクウィーン、どちらで研究すればいいか意見を求められ、回答を述べた[5]
  4. ^ 1942年昭和17年)9月7日に、「爽やかに退官の辞令受けにけり」という俳句を詠んで退官した中村隆治は、俳号「力中」、ホトトギス派の俳人であった[9][12]
  5. ^ 1943年(昭和18年)5月17日に新潟医科大学法医学教室教授で俳人の高野素十が、「豆飯を供へ故人となられたる」という中村隆治の人柄が清潔であったと思わせる悼句を詠んでいる[14]

出典

[編集]
  1. ^ 越佐と名士』420頁。『越佐名士錄』420頁。
  2. ^ a b 水原鄕土史』286頁。
  3. ^ a b c d 水原町編年史 第四巻』613頁。
  4. ^ 齋藤茂𠮷全集 第十巻』旧版、371頁。『齋藤茂𠮷全集 第七巻』新版、674頁。
  5. ^ 齋藤茂𠮷全集 第八巻』旧版、524-525頁。『齋藤茂𠮷全集 第七巻』新版、305-306頁。
  6. ^ a b 教室の沿革/新潟大学医学部精神医学教室
  7. ^ a b c d e 精神神經學雜誌』第47巻第8号、巻頭。
  8. ^ 精神神経学雑誌』第109巻第8号、723頁。
  9. ^ a b c d e 新潟県大百科事典 別巻』311頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1406頁。
  10. ^ a b 水原人物風土記』48-49頁。
  11. ^ a b c 新潟日報』2019年6月19日付別刷、C面。
  12. ^ a b c d e 水原人物風土記』49頁。
  13. ^ 新潟日報』1943年4月10日、1面。
  14. ^ 素十俳句365日』91頁。
  15. ^ 新潟日報』1942年12月22日、4面。
  16. ^ 新潟大学二十五年史 部局編』571頁。
  17. ^ 敍任及辭令」『官報』第3456号、447頁、内閣印刷局、1938年7月12日。
  18. ^ 辭令二」『官報』第4438号付録、18頁、内閣印刷局、1941年10月23日。
  19. ^ 敍任及辭令」『官報』第4709号、361頁、内閣印刷局、1942年9月18日。
  20. ^ 齋藤茂𠮷全集 第三十六巻』新版、700頁。『會津八一・吉野秀雄 往復書簡〈下〉』329・336頁。

参考文献

[編集]
  • 「故中村隆治名譽敎授を偲ぶ」『精神神經學雜誌』第47巻第8号、巻頭、上村忠雄[著]、日本精神神経学会、1943年。
  • 「中村隆治君」『新潟百紳士』118-120頁、梅田江湖[著]、新潟公友社、1925年。
  • 「中村隆治」『越佐と名士』420-421頁、坂井新三郎[著]、越佐と名士刊行会、1936年。
  • 「中村隆治」『越佐名士錄』420-421頁、坂井新三郎[著]、越佐名士録刊行会、1942年。
  • 「中村隆治」「附 敎室小史」『新潟醫科大學精神病學敎室業績 第二輯 敎室創立二十五年 記念論文集』419頁、新潟医科大学精神病学教室[編]、新潟医科大学精神病学教室、1941年。
  • 「中村隆治」『水原鄕土史』286頁、小林存[著]、水原町、1957年。
  • 「中村隆治」『新潟県大百科事典 別巻』311頁、蒲原宏[著]、新潟日報事業社[編]、新潟日報事業社、1977年。
  • 「中村隆治」『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1406頁、蒲原宏[著]、新潟日報事業社出版部[編]、新潟日報事業社出版部、1984年。
  • 「一九四三年 昭和十八年 新潟大学教授、中村隆治氏逝く」『水原町編年史 第四巻』613頁、水原町史編さん委員会[編]、水原町役場、1984年。
  • 「精神神経病の先覺者 中村隆治」『水原人物風土記』48-49頁、水原町[編]、水原町、2004年。
  • 「初代教授 中村隆治氏 欧文誌創刊 世界に発信」「新潟大学医学部精神医学教室の軌跡」「第115回日本精神神経学会学術総会特集」『新潟日報』2019年6月19日付別刷、C面、新潟日報社、2019年。
  • 「精神異常兒の救濟に 街頭に出る中村氏 縣内外の名士後援會を組織」『新潟日報』1942年12月22日、4面、新潟日報社、1942年。
  • 「新潟醫大名譽敎授 中村博士逝去」『新潟日報』1943年4月10日、1面、新潟日報社、1943年。
  • 『新潟大学二十五年史 部局編』新潟大学二十五年史編集委員会[編]、新潟大学二十五年史刊行委員会、1980年。
  • 精神医学のグローバル化と英文学術雑誌 (PDF) 」『精神神経学雑誌』第109巻第8号、723頁、武田雅俊[著]、日本精神神経学会、2007年。
  • 『齋藤茂𠮷全集 第八巻』旧版、斎藤茂吉[著]、岩波書店、1952年。
  • 『齋藤茂𠮷全集 第十巻』旧版、斎藤茂吉[著]、岩波書店、1954年。
  • 『齋藤茂𠮷全集 第七巻』新版、斎藤茂吉[著]、岩波書店、1975年。
  • 『齋藤茂𠮷全集 第三十六巻』新版、斎藤茂吉[著]、岩波書店、1976年。
  • 會津八一吉野秀雄 往復書簡〈下〉』會津八一記念館[監修]、伊狩章岡村浩・近藤悠子[編]、二玄社、1997年。
  • 素十俳句365日』村松紅花[編著]、梅里書房、1991年。

関連文献

[編集]
  • 「新潟醫科大學名譽敎授正三位勲二等 中村隆治儀」『新潟日報』1943年4月11日、4面、新潟日報社、1943年。
  • 「本會副會長及本財團監事 中村隆治氏」『新潟日報』1943年4月11日、4面、新潟日報社、1943年。
  • 「本院顧問 中村隆治殿」『新潟日報』1943年4月11日、4面、新潟日報社、1943年。
学職
前回
三宅鉱一
日本神経学会総会会長
第34回:1935年
次回
三宅鉱一