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中村貞一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中村 貞一(なかむら さだいち[1]1909年9月24日[2] - 没年不明)は、日本の林学者、造園学者。

京都大学島根県立島根農科大学(現在の島根大学生物資源科学部)、信州大学名城大学などで長く教育と研究にあたる。専門は防火樹に関する実験的研究であるが、別に観光レクリエーション[3][4]と日本庭園史[5]を手がけた。

来歴

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1929年、第八高等学校文科乙類を卒業する[6]東京帝国大学法学部法律学科に進学するが、結核にかかり1935年に中途退学した[7]。療養後の1942年9月から京都帝国大学に入学し、1945年、京都帝国大学農学部林学科を卒業した[8]。同年より京都大学農学部助手(演習林、造園学教室)を経て1953年に京都大学講師となる[9]

1957年、島根県立島根農科大学に助教授として転任する[要出典]。担当は造園と森林保護であったが、他に視程の研究などを始めている[10][7][11][12]。また、萬福寺庭園の修理工事を担当した[7]。1962年に京都大学より農学博士号を取得した[要出典]

1967年、信州大学農学部森林工学科教授に就任する[11][13]。在職中に信濃国分寺跡の発掘と史跡公園の基本設計を担当した[14]

1973年に信州大学を退官し、名城大学農学部教授となる[15]。1982年3月に農学部教授を退職して[15]、同大学の理工学部建築工学科に移る[1][16]

1950年に日本造園学会賞、平成5年度(第12回)日本造園学会上原敬二賞をそれぞれ受賞している[7][17]

著書に『緑地・造園の工法』(鹿島出版会、1977年)、分担執筆に『造園技術』『造園技術大成』『造園辞典』『造園の歴史と文化』などがある。

脚注

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  1. ^ a b 中村貞一「緑地工学が当面する諸問題」『造園雑誌』第46巻2号、日本造園学会、1982年、p.129-133, doi:10.5632/jila1934.46.129。(名前の読みの出典、ならびに肩書きとして「名城大学理工学部建築工学科」とある)
  2. ^ 『全国大学職員録』廣潤社, 1977年、[要ページ番号]
  3. ^ 関口えい太郎・中村貞一・山田俊一・山田隆已「六甲自然公園の利用調査(昭和30年度春季大会,研究発表論文梗概)」『造園雑誌』第19巻1号、日本造園学会、1955年9月、pp.18-19, NAID 110004658932
  4. ^ 中村貞一「U.S.Aのレクリエーシヨン資源」『造園雑誌』第16巻3・4号、1952年3月、p.42, NAID 110004091857
  5. ^ 例えば、森蘊・村岡正・浅野喜市『浄土の庭』平凡社、1980年。なお本書では日本庭園は鎌倉時代には「後世の常縁広葉樹を主体とする庭よりは、はるかに明るく、花木はもとより果樹さえ取り入れた彩りの多い姿が想像される。」としている[要ページ番号]
  6. ^ 『日本著者名人名典拠録』日外アソシエーツ、1989年、[要ページ番号]
  7. ^ a b c d 『ランドスケープ研究』第58巻4号、日本造園学会、1995年3月、p.357-360
  8. ^ 『京都大学百年史 部局史編』第2巻、京都大学後援会、1997年、[要ページ番号]
  9. ^ 京都大学七十年史編集委員会『京都大学七十年史』京都大学創立七十周年記念事業後援会、1967年、[要ページ番号]
  10. ^ 中村貞一, 石原周次, 「森林遠望識別度と識別限界距離の算定法」『日本林學會誌』第46巻8号、日本林学会、1964年、p.274-280, NAID 130003578311, doi:10.11519/jjfs1953.46.8_274
  11. ^ a b 『国立国会図書館著者名典拠録 明治以降日本人名』第4巻、国立国会図書館、1991年、[要ページ番号]
  12. ^ 『園藝學會雜誌』第 35 - 36巻、園芸学会、1966年、[要文献特定詳細情報]
  13. ^ 『信州大学農学部紀要』第 21 - 22 巻、信州大学農学部、1984年、[要文献特定詳細情報]
  14. ^ 『信濃国分寺』吉川弘文館、1974年、[要ページ番号]
  15. ^ a b 研究室の歴史 - 名城大学 農学部 ランドスケープ・デザイン学研究室
  16. ^ 『梅棹忠夫著作集』中央公論社、1989年、[要ページ番号]
  17. ^ 上原敬二賞受賞者 - 日本造園学会