中御門経隆
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中御門 経隆(なかのみかど つねたか、1852年3月19日(嘉永5年2月29日[1])- 1930年(昭和5年)4月1日[1][2])は、明治から大正期の海軍軍人、教育者、華族。最終階級は海軍大尉。貴族院男爵議員。旧名・寛麿[1][3]。
経歴
[編集]山城国京都で侍従・中御門経之、堀河富子夫妻の三男として生まれる[1][3][4][5]。1880年(明治13年)3月に分家して華族に列せられ[1][3][4]、同年8月、経隆と改名[6]。1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した[1][3][7]。
明治元年(1868年)、イギリスに留学して海軍学校で学び、1876年(明治9年)に帰国[1][3][4]。1877年(明治10年)海軍中尉に任官[2][3]。以後、海軍兵学校監事、横須賀屯営分隊長、第一回漕丸(館山)分隊長、参謀本部海軍部編纂課第二部主事、佐世保海兵団分隊長、横須賀海兵団分隊長、呉海兵団分隊長などを歴任[2]。1881年(明治14年)海軍大尉に進み、予備役編入後、1896年(明治29年)商船学校助教に就任し、兼大阪分校長、同教授兼大阪分校長を務め、1899年(明治32年)1月31日に辞職した[2][3][5][8]。
1899年1月26日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[9][10]、1904年(明治37年)7月9日まで一期在任[2]。1915年(大正4年)8月26日に隠居した[1][11]。
親族
[編集]- 母:堀河富子(堀河康親子爵の娘)[1]
- 妻:中御門恭子(ゆきこ、岩倉具綱公爵長女)[1]
- 長女:大谷瓏子(大谷勝信夫人)[1]
- 二女:内田澄子(内田正吉夫人)[1]
- 三女:矢部敬子(よしこ、矢部吉禎夫人)[1]
- 二男:中御門経恭(中御門萬千子の養子となり本家中御門家を継承、貴族院侯爵議員)[1]
- 三男:中御門経民(貴族院男爵議員)[1]
- 四女:片谷佐保子(片谷伝造夫人)[1]
- 兄:中御門経明(貴族院侯爵議員)[12]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『平成新修旧華族家系大成 下巻』242頁。
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』79頁。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録』第4版、な61頁。
- ^ a b c 『新訂増補 海を越えた日本人名事典』505頁。
- ^ a b 『日本人名大辞典』1382頁。
- ^ 「履入1333 鎮守府届 中御門中尉改名」
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『官報』第4673号、明治32年2月1日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、10頁。
- ^ 『官報』第4672号、明治32年1月31日。
- ^ 『官報』第932号、大正4年9月9日。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成 下巻』240頁。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 『新訂増補 海を越えた日本人名事典』日外アソシエーツ、2005年。
- 海軍省(明治13年)「履入1333 鎮守府届 中御門中尉改名」 アジア歴史資料センター Ref.C09114781400
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 中御門家(分家)初代 1884年 - 1915年 |
次代 中御門経民 |