中御門為行
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時代 | 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 建治7年(1276年) |
死没 | 正慶元年/元弘2年9月10日(1332年9月30日) |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 後宇多上皇→伏見上皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流吉田家庶流中御門家(経任系) |
父母 | 父:中御門為方 |
兄弟 | 経禅、房快、女子[1] |
子 | 為宗、雅行 |
中御門 為行(なかのみかど ためゆき)は、鎌倉時代後期の公卿。権中納言中御門為方の子。官位は正二位、権中納言。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 文永12年(1275年)1月6日、叙爵。
- 弘安元年(1278年)11月20日、従五位上に昇叙[2]。
- 弘安6年(1283年)4月5日、和泉守に任ぜられる[3]。同年7月20日、正五位下に昇叙。
- 弘安9年(1286年)閏12月29日、春宮権大進を兼ねる。
- 弘安10年(1287年)10月22日、春宮権大進を止める[4]。
- 正応元年(1288年)9月12日、和泉守を止める。
- 正応2年(1289年)6月2日、春宮権大進を兼ねる。
- 正応3年(1290年)6月8日、右衛門権佐を兼ねる。同時に検非違使宣旨を受ける。
- 正応4年(1291年)7月29日、右少弁を兼ねる。同日、右衛門権佐を去る。
- 正応5年(1292年)4月13日、春宮権大進を止める。勧学院別当となる。同年11月23日、左少弁に転任。同年12月25日、造興福寺長官に補せられる。
- 永仁2年(1294年)10月2日、南都の衆徒により放氏される。同年12月22日、放氏から解かれる。
- 永仁3年(1295年)6月23日、権右中弁に転任。同年8月5日、従四位下に昇叙。
- 永仁5年(1297年)6月7日、右中弁に転任。同年7月22日、従四位上に昇叙。同日、修理右宮城使に補される。
- 永仁6年(1298年)6月8日、左中弁に転任。同月22日、正四位下に昇叙。同年7月21日、修理左宮城使に補される。
- 正安元年(1299年)6月6日、右大弁に転任。
- 正安2年(1300年)1月5日、従三位に除される。同年3月6日、越後権守を兼ねる。同年4月7日、左大弁に転任。5月29日、造東大寺長官に補される。
- 正安3年(1301年)3月18日、左大弁を止め民部卿に任ぜられる。
- 乾元元年(1302年)12月30日、民部卿を止める。
- 嘉元元年(1303年)8月28日、参議に任ぜられる。
- 嘉元2年(1304年)3月7日、讃岐権守を兼ねる。
- 嘉元3年(1305年)9月27日、亀山法皇崩御後に素服を賜る。同年12月に除服宣下を受ける。
- 徳治元年(1306年)10月、父の為方所労により執権を譲られる。12月11日、父の為方の喪に服し同月29日、参議を辞した。
- 延慶元年(1308年)9月17日、参議に還任した。同年11月24日、恐懼に処せられる[5]。同月29日、恐懼を免除される。
- 延慶2年(1309年)1月6日、正三位に昇叙。同年3月23日、越後権守を兼ねる。同年12月9日、左兵衛督を兼ね検非違使別当となす。
- 延慶3年(1310年)3月9日、権中納言に任ぜられる。左兵衛督と検非違使別当は元の如し。7月25日、検非違使別当を辞した。8月2日、権中納言と左兵衛督を辞して従二位に昇叙された。
- 正和2年(1313年)9月20日、正二位に昇叙。
- 元応2年(1320年)、本座を許される。
- 正慶元年(1333年)9月10日、薨去。享年57。
系譜
[編集]- 父:中御門為方(1255-1307)
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:中御門為宗
- 男子:雅行