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長崎聖堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中島聖堂から転送)

長崎聖堂(ながさきせいどう)は、長崎市にあった孔子廟立山書院中島聖堂とも呼ばれた。唐通事などの語学を指導する唐音勤学会が置かれ、また一般の聴講も許された月次講釈も開講され、長崎官学の拠点となった。伊東巳代治もここで漢学などを学んだ[1][2]

163坪の地内に22坪8合の囲いを作り、2間四方の聖堂が建立されていた[3]

歴史

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長崎聖堂跡碑(長崎市伊勢町)

正保4年(1647年)、儒学者の向井元升長崎奉行馬場利重に願い出て、東上町に聖堂学舎を建立し、自ら塾師となって儒学を講じた。長崎ではキリシタン禁教後、神社仏寺は興隆した一方、儒道はあまり栄えなかったが、これ以後儒学は大いに盛んになった。この当時、同所は立山書院と呼ばれた[1][2][3][4]

明暦4年(1658年)、元升が京都に去った後、一時中絶。寛文3年(1663年)の火災(寛文長崎大火)で聖堂・学寮ともに焼失した[1][2][3][4]

延宝4年(1676年)、長崎奉行の牛込忠左衛門により再興され、長崎滞留中だった京都の儒者・南部草寿を塾師に招いて往時の盛況に復した。その後、草寿が士官のため越中へ赴いたことで、しばらく主宰のいない時期が続いた[1][3][4][5][6]

同8年(1680年)、元升の三男・向井元成が草寿の跡を継いで祭主を務めて以来、向井氏が祭主を世襲し、書物改役にも任じられた[1][2][4][7][8]

宝永7年(1710年)、敷地が狭隘であるため移転することになり、伊勢町にある旧鋳銭所の跡地545坪を寄付され、同年12月より工事が始まる[9]。翌正徳元年(1711年)の8月17日に同地に遷座。この時から長崎聖堂と称するが、一般には中島聖堂と呼ばれた。同年の棟札には「長崎府大成殿講堂」と記され、東25間・西23間5尺余・南24間1尺余・北15間半。聖廟、明倫堂(講堂)、学寮、書庫、崇聖祠、杏檀門などから構成された[1][2][10]

翌2年(1712年)、唐人たちから請願があり、毎年釈菜[注釈 1]拝礼の儀を行うことが許可された[9]

享保元年(1716年)、唐音勤学会が始まる[9]

同3年(1718年)、聖堂の後ろにある田地721坪半が寄付される。同6年(1721年)、書生の訓令のための教育料が下されることになる[9]

元文元年(1736年)から釈菜は毎年2月21日に挙行され、費用は長崎会所から銀3貫目が支給されることになった[2]

翌2年(1737年)から、来航唐人は毎年各船1隻から2人ずつ参詣する慣例となり、反物(繻子・緞子・縮緬・紗など)2端、または砂糖2籠を献上する定めとなった。寛保3年(1743年)ごろには、聖堂の収入13貫余のうち4貫余は白砂糖によるもので、文政4年(1821年)には唐船50艘分の白砂糖100丸が納入された[2]

宝暦8年(1758年)より釈菜の日には音楽を奏し、囃子は行われないこととなる[9]

安政6年(1859年)、聖堂は教授所、書物改役は教授役と改称された[2]

慶応3年(1867年)、長崎の地役人の大改革が行われた際、向井家の受用銀は廃止され、新たに30俵2人扶持、手当銀35両を支給されることになった[2]

明治元年(1868年)、教授所は広運館の漢学局となる。翌2年(1869年)、漢学局は国学局に合併。同4年(1871年)聖堂関係諸役司は全廃される。長崎聖堂の建物や記念碑、祭具・文書類は長崎県教育会に引き継がれ、1959年昭和34年)に長崎市教育委員会に寄贈された[1][2]

歴代祭主

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『長崎実録大成 正編』第四巻「神社経営之部」より[11]

  • 初代 - 向井元升以順 - 正保4年から万治元年まで
  • 2代 - 向井元成兼丸 - 延宝8年から享保10年まで[注釈 2]
  • 3代 - 向井文平兼命 - 享保11年から同2年まで
  • 4代 - 向井元仲兼般 - 享保3年から明和2年まで
  • 5代 - 向井齋宮延美 - 明和3年から

遺構

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中島聖堂遺構大学門(長崎県指定有形文化財)

1959年昭和34年)、聖堂にあった杏檀門が長崎市内にある興福寺の境内に移築された[12][13][14][9]

脚注

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注釈

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  1. ^ 長崎市民と居留唐人や唐船主にとっての重要な年中行事で、長崎奉行が臨席して費用を援助した。
  2. ^ 延宝4年から8年までは南部草寿が主宰。

出典

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  1. ^ a b c d e f g 「長崎聖堂」長崎新聞社長崎県大百科事典出版局 1984, p. 631.
  2. ^ a b c d e f g h i j 「長崎聖堂跡」平凡社 2001, p. 146.
  3. ^ a b c d 田辺茂啓 1973, p. 104.
  4. ^ a b c d 外山幹夫 1988, p. 126-127.
  5. ^ 江越弘人 2007, p. 145.
  6. ^ 永松実 2021, p. 97.
  7. ^ 田辺茂啓 1973, p. 104-105.
  8. ^ 江後迪子 2011, p. 16-17.
  9. ^ a b c d e f 田辺茂啓 1973, p. 105.
  10. ^ 田辺茂啓 1973, p. 105-106.
  11. ^ 田辺茂啓 1973, p. 106-107.
  12. ^ 長崎県高等学校教育研究会 地歴公民部会歴史分科会 2005, p. 41.
  13. ^ 外山幹夫 1990, p. 56.
  14. ^ 姫野順一 2014, p. 104.

参考文献

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  • 江越弘人『≪トピックスで読む≫長崎の歴史』弦書房、2007年3月。ISBN 978-4-902116-77-9 
  • 江後迪子『長崎奉行のお献立 南蛮食べもの百科』吉川弘文館、2011年2月。ISBN 978-4-642-08048-4 
  • 外山幹夫『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』中央公論社、1988年12月。ISBN 4-12-100905-3 
  • 外山幹夫『長崎 歴史の旅』朝日新聞社、1990年10月。ISBN 4-02-259511-6 
  • 永松実『長崎代官末次平蔵の研究 「闕所御拂帳」を中心に』宮帯出版社、2021年1月。ISBN 978-4-8016-0222-9 
  • 姫野順一『古写真に見る幕末明治の長崎』明石書店、2014年6月。ISBN 978-4-7503-4022-7 
  • 安高啓明『踏絵を踏んだキリシタン』吉川弘文館、2018年7月。ISBN 978-4-642-05869-8 
  • 安高啓明『長崎出島事典』柊風舎、2019年6月。ISBN 978-4-86498-066-1 
  • 長崎県高等学校教育研究会 地歴公民部会歴史分科会 編『長崎県の歴史散歩』山川出版社、2005年6月。ISBN 978-4-634-24642-3 
  • 長崎新聞社長崎県大百科事典出版局 編『長崎県大百科事典』長崎新聞社、1984年8月。全国書誌番号:85023202 
  • 平凡社 編『日本歴史地名大系』 43(長崎県の地名)、平凡社、2001年10月。ISBN 4-582-49043-3