コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

軍曹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中士から転送)

軍曹(ぐんそう)は、

  1. 平安時代の律令制における鎮守府の三等官。将軍、軍監の下に属し、定員2名であった。官位相当は従八位上。
  2. 戊辰戦争のときに置いた官職で、1868年3月31日(慶応4年(明治元年 3月8日)から勤王である浪人を軍曹として俸禄を給した[1]、戊辰戦争が終わると1870年4月30日(明治3年3月30日)に軍曹を廃止して士族に編入して東京府貫属とした[2] [注釈 1]
  3. 1871年2月11日(明治3年12月22日)に各常備兵編制法を定めたときの歩兵大隊砲兵隊の中の下等士官の最下級である[4] [5]曹長・権曹長と軍曹を総称して下等士官といい、権曹長の下、伍長の上である[4] [5]
  4. 1871年(明治4年8月)から募集編隊を始めた海兵隊における下士の階級である[6]。曹長・権曹長の下、伍長の上である。1876年(明治9年)8月に海兵を解隊し[7]、配置転換が完了したのち1878年(明治11年)2月19日に海軍文武官官等表から海兵部の部目を廃止した[8]
  5. 大日本帝国陸軍下士官階級の一つ。曹長の下で、伍長の上に位置する。陸海空各自衛隊では、2等陸曹、2等海曹(旧海軍の呼称では一等兵曹)、2等空曹(2曹)に相当。
  6. 近代陸軍(陸軍航空隊を含む)の中級から下級程度の下士官の階級の訳語。アメリカ陸軍のsergeant など[注釈 2]
  7. 主に5.・6.になぞらえて、他人にはもちろん、自分にも厳しく接する叩き上げ型の人物を指した呼称。「軍曹」と呼ぶこともある。

近代陸軍における軍曹

[編集]

概要

[編集]

軍隊階級はその軍・時代によっていろいろな名称が存在するが、「卒伍のうち優秀なものを登用し兵のまとめ役とする」階級が存在し、序列として尉官の下になる点はおおむね同じである。

軍曹以上を下士官として扱うか、あるいはその下の階級以上を下士官として扱うかについては国や時代により差があるが、下士官の分類として重要な位置づけとなっている[注釈 4] [注釈 5]

軍曹は分隊長を務めることがある。その場合、率いる兵員は10名から20名程度のことが多い。

軍曹は、兵の教練役や部隊の士気と秩序の維持を担うため、畏敬と揶揄を込めて「鬼」「鬼軍曹」などとも呼ばれる。

また新米将校の補佐役としての役割も大きく、戦術レベルにおいて古参軍曹の見解は新米将校の判断より重んじられる場合がある。

日本陸軍

[編集]

1871年(明治3年12月)の軍曹

[編集]

版籍奉還の後、1871年2月11日明治3年12月22日)に各常備兵編制法を定めたときの歩兵大隊や砲兵隊の中の下等士官の最下級である[4] [5] [注釈 6] [注釈 7] [注釈 8]曹長・権曹長と軍曹を総称して下等士官といいその下に伍長を置き、下等士官と伍長の四職は少佐が選抜して藩庁へ届出させ、下等士官の採用・離職・降級・昇級は毎年2回まとめて兵部省へ届出させた[4] [5][注釈 9]

1871年4月2日(明治4年2月13日)に御親兵を編制して兵部省に管轄させることになり[18]、また同年6月10日(同年4月23日)に東山西海両道に鎮台を置いて兵部省の管轄に属すことになり[19]、明治4年5月には兵部省によって軍曹を命じる例や、会計書記軍曹・倉庫掛軍曹・喇叭軍曹・給養軍曹・射的軍曹を命じる例が見られる[注釈 10]

陸軍徽章で定めた軍服階級章は、紐釦並びに帽前面章は下等士官と伍長以下で区別しており、下等士官の釦は真鍮桜花、前面章は真鍮日章であるのに対して、兵卒・伍長共に釦は真鍮隊号を附け、前面章は塗色日章とした[28]。 下等士官と兵卒は軍帽の周囲黄線、上衣の袖黄線でその階級を区別しており、軍曹は軍帽・袖章とも大1条である[29]。 親兵についても軍曹を下等士官としており、その紐釦・帽前面章、軍帽・袖章は同様の区別をしている[30]。 また、兵部省陸軍下等士官給俸定則でも、曹長以下軍曹以上については衣服は官給、食料は自弁とすることができるのに対し、伍長以下二等兵卒以上は衣服食料とも官給とした[31]。なお、給俸定則では三兵の兵種に従い差等があるとしても当分先ず同様として、代わりに軍曹の給俸を4等に分けて一等軍曹から四等軍曹までとしているが、軍曹の軍服や階級章では区別していない[31][29]

1871年(明治4年8月)の軍曹

[編集]

廃藩置県の後、1871年(明治4年8月)の陸軍においても下等士官の最下級であった[注釈 11]。曹長・権曹長の下、伍長の上にあり、官等は15等のうちの十三等である[33] [注釈 12]。 官等表に掲載する大尉以下軍曹までを判任としたのに対し、官等表に掲載しない伍長以下兵卒までを等外として扱った[36]明治5年1月の官等表改正後も同年2月陸軍省設置後も軍曹以上は判任で伍長以下は等外である[37] [38] [39]

1872年1月13日(明治4年12月4日)に兵部省の指令で定めた鎮台分営士官心得勤辞令書式によると、軍曹の仮任を命ずるときはその達書は隊長名によって陸軍軍曹の心得を以て当分相勤める可き事とし、軍曹の正員を補するのは帥の決を取って命ずるので鎮台本営によって陸軍軍曹を申し付ける事としており、少尉以上の任官とは異なる取り扱いをしている[40] [注釈 13]

陸軍徽章を増補改定しているが下等士官の釦は真鍮桜花、前面章は真鍮日章であるのに対して、兵卒・伍長共に釦は真鍮隊号を附け、前面章は塗色日章とし、軍曹は軍帽・袖章とも大1条で変わりない[42]。 また、兵部省陸軍・士官兵卒・給俸諸定則でも、下等士官については食料として毎月金5を賜るのに対し、伍長以下は現賄を賜るとした[43]。なお、給俸諸定則では兵種に随い日給の差等があるとしても当分先ず同様として、代わりに軍曹の給俸を4等に分けて一等軍曹から四等軍曹までとしているが、官等表に掲載する官名は軍曹であり軍服や階級章でも区別していない[33][43][42][注釈 14]

1873年(明治6年)3月19日の陸軍武官俸給表では、官名として軍曹、分課として砲・・歩、等級として一等・二等、所属として近衛鎮台があり、これらの組み合わせで俸給額に違いがあった、また列外増給として書翰掛・給養・会計・倉庫掛・火工下長軍曹には増給の規定がある[45]。 このとき、軍曹の俸給には一・二等級が置かれて従前の三等以下の級は悉く廃止されたことから、陸軍省達により兵学寮および諸鎮台でこれまで二等給の者は一等に当て、三等以下の者はすべて二等給を以て渡し方を取り計らうこととした[46][注釈 14]。 給養にあたっては、歩兵大隊は8個小隊で軍曹は1個小隊に各4人で大隊では小隊附が合計32人、それとは別に射的軍曹は1個小隊に各1人で大隊では小隊附が合計8人、給養軍曹は1個小隊に各1人で大隊では小隊附が合計8人と列外に1人、倉庫掛軍曹は列外に1人、会計書記軍曹は列外に1人、喇叭軍曹は大隊附が1人、銃工長は列外に1人、縫工長は列外に1人、靴工長は列外に1人としていた[47]

1873年(明治6年)5月以前に用いられた各種名義の軍人について、当時の官制に於いて規定した明文がないものの、例えば心得、准官のような名義の者であっても当時は戦時に際して上司の命令を以て実際に軍隊・官衙等に奉職しその任務を奉じたことから、1892年(明治25年)5月に陸軍大臣の請議による閣議に於いてこれらを軍人と認定しており[48] [49]、これらのうち軍曹に相当するものには次のようなものがある[50] [51]

軍曹心得[50][40][44]
明治3・4・5年の頃にあってその本官の職を取る。本官とは、軍曹は半小隊長の職を取る[51]
七等下士並び試補[50]
明治元年以降、明治4年頃までのものであって七等下士は軍曹相当であってその職を取り、試補はこれに等しいもの[51]

1873年(明治6年)5月の軍曹

[編集]

1873年(明治6年)5月8日の陸海軍武官官等表改正で軍曹の官等を15等のうちの十三等から十二等に繰上げた[34] [注釈 15]。曹長の下、伍長の上であり[34]、このとき下士の最下級は軍曹から伍長に代わる[注釈 12]。 曹長・軍曹の人事手続きには伍長との違いがあった[注釈 16]。 軍曹一等・軍曹二等と表記することがあるが[55]、官名は軍曹(曹長・伍長も同様)であり給料に関係するためやむを得ない場合の表記である[56]。 権曹長を廃止したことから、従前の列外書翰掛権曹長については改定するまで当分の内は二等の曹長としたが、追って編制替えの上で軍曹を以て書翰掛に充てることとなる[57] [45]

1874年(明治7年)11月30日改正の部隊編成では、軍曹は歩兵連隊書記・会計附属・喇叭長、歩兵大隊書翰掛・会計附属・給養掛、歩兵中隊給養掛・中隊附、騎兵大隊給養掛・掛・大隊附、山/野砲兵大隊会計附属、山/野砲兵小隊(本隊)砲車長、山野砲兵小隊(予備隊)火工下長・器械掛・給養掛、工兵小隊器械掛・給養掛・小隊附、輜重兵小隊給養掛・厩掛・小隊附である。歩兵連隊は3個大隊で大隊は4個中隊とし、連隊附の軍曹は書記1人・会計附属1人・喇叭長1人、大隊附の軍曹は各大隊に書翰掛1人・会計附属1人・給養掛1人、中隊附の軍曹は各中隊に給養掛1人と中隊附8人で、1個大隊の軍曹は合計39人、歩兵連隊の軍曹は合計120人とした[58]

1874年(明治7年)に北海道屯田憲兵を設置することを定め[59]、1875年(明治8年)3月4日に開拓使の中で准陸軍軍曹の官等を定め、その官等は正官と同じとした[60] [61]

1875年(明治8年)11月24日に改正した陸軍武官服制では、軍曹の袖章は金線1条内記打1条である[62]

1875年(明治8年)に発行された官職一覧によると[注釈 17]、軍曹は省中の庶務に従事せずそしてその勤務に一般のと当番のとがある。一般の勤務はただ営中の規則を遵守し各自定められた所の半隊に附属し。そして該隊を管轄する中少尉の命を受け諸般の勤務を伍長以下に令し、かつ諸物品の保存に注意する等になる。当番の勤務は該隊の伍長以下の勤惰等を毎一週間の交代で監督することを掌るとされた[64]

1875年(明治8年)12月17日に定めた陸軍給与概則では、軍曹の俸給は科目として砲・工、騎・輜、歩、等級として一等・二等があり、これらの組み合わせで俸給額が決まる[65]。職務増俸については軍曹は書記・会計附属・器械掛・給養掛・書翰掛・厩掛を務める場合に増俸がある[65]

1877年(明治10年)1月に官等を17等に増加しているが[66]、1879年(明治12年)10月10日達陸軍武官官等表では軍曹は引き続き十二等としており、このとき官名に憲兵・歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵など各兵科の名称を冠することにした[67]

1882年(明治15年)2月8日に開拓使を廃止したことから[68]、屯田兵の準陸軍軍曹を陸軍省に管轄させた[69] [61]

1883年(明治16年)5月4日太政官第21号達で陸軍武官官等表を改正し、憲兵・歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵の各兵科軍曹の官名から陸軍の2字を除いた[70] [71]

1884年(明治17年)の軍曹

[編集]

1884年(明治17年)に部隊編制の変更があり、従前は軍曹は主として半小隊長の職務を務め伍長は主として分隊長の職務を務める者であるところ、これでは差し支えることが多いため軍曹を一等軍曹(いっとうぐんそう[72])に伍長を二等軍曹(にとうぐんそう[73])に任じてともに半小隊長の職務を務めさせて分隊長を上等兵に務めさせることにしたため、屯田兵を除いて伍長を廃止して再び軍曹が下士の最下級となる[74]。 明治17年6月から明治18年7月までの間を予定して編制替えを行いこれが完了するまでは軍曹・伍長と一等・二等軍曹を併用した[74]

1885年(明治18年)5月5日太政官第17号達により陸軍武官官等表を改正して輜重兵一等軍曹の次に屯田兵軍曹を置いた[75]。従前の准陸軍軍曹は屯田兵軍曹の官名に換えた[76] [注釈 18]

1886年(明治19年)3月9日勅令第4号で陸軍武官官等表を改正して再び官名に陸軍の2字を冠することとし、憲兵・歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵については各兵一等軍曹・各兵二等軍曹の官名をそれぞれ陸軍各兵一等軍曹・陸軍各兵二等軍曹に改め、屯田兵軍曹・屯田兵伍長の官名をそれぞれ陸軍屯田兵一等軍曹・陸軍屯田兵二等軍曹に改めた[77]

1886年(明治19年)4月29日に判任官官等俸給令(明治19年勅令第36号)を定めて判任官を10等に分け[78]、陸軍准士官・下士の官等は判任一等より四等までとしたことから陸軍各兵一等軍曹並び相当官は判任三等、陸軍各兵二等軍曹並び相当官は判任四等となる[79] [80]

1890年(明治23年)3月22日に判任官官等俸給令を改正・追加して判任官を6等に分けるが[81]、陸軍准士官・下士の官等は判任一等より四等までとしたことに変更はない[80] [82]

1890年(明治23年)6月27日に陸軍武官官等表を改正し、砲兵火工下長は他の諸工長とその性質をことにし一般戦列下士と同様のものであるためこの際に工長の名称をやめ本科の下士に加えて、火工一等軍曹に改めその下に火工二等軍曹を設けた[82]

1891年(明治24年)3月20日勅令第28号により陸軍武官官等表を改正し、屯田兵の兵科を廃止して屯田歩兵・騎兵・砲兵・工兵はその兵科を区別できる官名を加えた[注釈 19]

1891年(明治24年) 12月28日に定めた文武判任官等級表(明治24年勅令第249号)には等級が5等あり、そのうちの三等の欄に陸軍各兵一等軍曹・陸軍火工一等軍曹を、四等の欄に陸軍各兵二等軍曹・陸軍火工二等軍曹を掲載した[84]

1894年(明治27年)4月12日に文武判任官等級表を改正し、三等の欄に陸軍各兵一等軍曹並び相当官・陸軍火工一等軍曹・陸軍屯田火工一等軍曹を掲載し、四等の欄に陸軍各兵二等軍曹並び相当官・陸軍火工二等軍曹・陸軍屯田火工二等軍曹を掲載した[85]

明治32年10月25日勅令第411号(同年12月1日施行)により陸軍武官官等表の中の各兵科下士の欄を改正して「一等軍曹」は「軍曹」と、「二等軍曹」は「伍長」と改称し、陸軍火工一等軍曹・陸軍屯田火工一等軍曹及び陸軍火工二等軍曹・陸軍屯田火工二等軍曹を削る[注釈 20]

1899年(明治32年)12月1日以後の軍曹

[編集]

下士官の階級のひとつ。曹長の下位、伍長の上。判任官三等。初叙は正八位勲八等功七級。海軍においては二等兵曹1942年以降は一等兵曹に改称)に相当する。 文武判任官等級表には等級が5等あり[84]、そのうちの三等の欄に陸軍各兵軍曹並び相当官を掲載した[87]

1904年(明治37年)12月13日勅令第236号により陸軍武官官等表を改正し、各兵科下士の欄の中から陸軍屯田歩兵・騎兵・砲兵・工兵軍曹を削る[注釈 21]

1910年(明治43年)6月文武判任官等級令(明治43年勅令第267号)では等級を4等に分け別表の三等の欄に陸軍各兵軍曹及び相当官を掲載した[90]

1925年(大正14年)5月1日に大正14年勅令第160号を施行して陸軍武官官等表を改正し、航空兵を独立した兵科として、陸軍工兵軍曹の項の次に陸軍航空兵軍曹を加えた[91]

1937年(昭和12年)2月12日に砲工兵諸工長及び各部下士官の官名を各兵科のものに一致させるように改正し、陸軍砲兵二等火(鞍・銃・鍛)工長は陸軍火(鞍・銃・鍛)工軍曹に、陸軍工兵二等木(機・電)工長は陸軍木(機・電)工軍曹にそれぞれ改めて、これらを従前の陸軍各兵軍曹と併せて陸軍各兵科軍曹と称し、経理部の陸軍二等計手は陸軍主計軍曹に、陸軍二等縫(靴)工長は陸軍縫(装)工軍曹にそれぞれ改め、衛生部の陸軍二等看護長は陸軍衛生軍曹に、陸軍二等磨工長は陸軍療工軍曹にそれぞれ改め、獣医部の陸軍二等蹄鉄工長は陸軍獣医務軍曹に改め、軍楽部の陸軍二等楽手は陸軍軍楽軍曹に改め、これらを陸軍各部軍曹と称した[92] [93]

1940年(昭和15年)9月15日に昭和15年勅令第580号を施行して陸軍武官官等表を改正し、兵科の区分を廃止して新たに技術部を設け、各兵科のうち憲兵科を除く陸軍歩(騎・砲・工・航空・輜重)兵軍曹は陸軍軍曹に改めて陸軍軍曹と陸軍憲兵軍曹は兵科に属し、砲兵科の陸軍火(鞍・銃・鍛)工軍曹及び工兵科の陸軍木(機・電)工軍曹は陸軍兵技軍曹に改め技術部に属した[注釈 22]

ちなみに伍長以上は職業軍人たる官吏武官)として扱われ、国民の義務として兵役に服するとは区別された。士官(尉・佐・将官)と一般兵士(卒・伍)の中間階級に位置する。

軍曹の位置づけはほぼ各国共通だが、階級の序列には若干の差異もあり日本では曹長の下、伍長の上にあたる。功労ある軍曹は勤続20数年を経て、正八位勲七等に叙せられた。また、武功顕著な軍曹は軍人特有の栄典である功級では功七級以上功五級以下の級に叙せられた。任官区分では判任官(等級は三等)。職は中隊付で戦時編成では分隊長(平時は内務班長)に相当した。古参の軍曹は中隊の陣営具掛・被服掛・兵器掛を命ぜられ、また聯隊本部の事務助手や炊事班長、喇叭長、被服・兵器などの倉庫掛助手といった仕事に就いた。出戦時には分隊長の他に指揮班の命令掛や材料掛といった仕事を担当した。

平時の軍隊(特に昭和初期の支那事変勃発前まで)で上等兵以上になると帰郷の際には村長や顔役から一席設けられたことに鑑みると、下士官を志願する者は優秀であった。しかしその反面、現役満期で退営しても世間での就職口が満足のいくものではなかったり、就職してもその社会的経済的地位が低すぎて軍隊の方がまだ暮らしやすいといった事情で志願することも多く、俗謡に「人の嫌がる軍隊に志願で出てくる馬鹿もある」(下士官志願を指す)と謡われ、さらに続けて「再役するような馬鹿もある」(下士官が願出る4年ごとの再役志願を指す)と揶揄された。農村出身者は小作農の次男・三男層(一生を重労働の農業労働者で終わる可能性が高い)や、都会では出世の見込みのない徒弟や職工、貧窮者が多かった。学歴は高等小学校卒業がほとんどで、中等学校以上の卒業者は民間である程度の出世が可能だったことから、あえて不自由で低収入の下士官志願はしなかった。

1943年当時の俸給は30円であった[95]。当時の1円は現在の5000円内外でありこの俸給は決して高禄とは言えず、営内居住で被服糧食とも現物支給かつ職業軍人には12年間勤続すれば支給される恩給制度があったため、それらを考慮して「中の下」、高等小学校卒程度の無学歴の者の待遇としては「中の中」といった程度であった。もっとも当時は日雇い9時間で1円から2円、阪急電鉄の新卒(中学卒)職員で日当1.2円から1.3円、帝国大学経済学部卒の初任給が月70円程度(褒賞別途)であり、働き盛りの30代で30円程度の現金収入では営外で家族を扶養したり都市生活者として威儀を保つには困難であった。憲兵軍楽部などの軍曹ないし軍曹相当者は営外居住であったが、営外居住者用の加俸があった。

陸軍廃止時には

が存在した[94] [97] [96] [98] [99] [100]

日本海軍

[編集]

日本海軍では二等兵曹(1942年からは一等兵曹)の官階が陸軍軍曹の官等に相当した。

明治初期

[編集]

海軍はイギリス[注釈 23]を斟酌して編制する方針を1870年10月26日(明治3年10月2日)に示しており[14]明治5年海軍省は下等士官以下の官名を英国海軍官名録に倣い改正することを布告したことから[102]、英国海軍官名録の中から適切な職名を採用して改めることにしたが、その前は曹長・権曹長・軍曹・伍長の職名が使われることがあった[103] [注釈 25] [注釈 26]

1871年2月11日(明治3年12月22日)に海軍服制を制定して軍服や階級章を定めたときに下等士官以下はで曹長・権曹長・軍曹・伍長・卒を区別して、軍曹の帽は黄線1条、曹長以下軍曹までは肘上章により水夫長、按針手、砲手、機関手、縫帆手、木工鍜治を区別した[111]

1872年2月20日(明治5年1月12日)に兵部省が定めた外国海軍武官に対応する国内の海軍武官の呼称ではペッチー・ヲフヰサル・フィルスト・クラスを一等軍曹に、ペッチー・ヲフヰサル・セコンド・クラスを二等軍曹に、ペッチー・ヲフヰサル・ソルド・クラスを三等軍曹に対応させている[112][113]

1872年5月21日(明治5年4月15日)から降級・昇級等については少尉以下軍曹までは海軍省において伝達することにする[114]

1872年9月27日(明治5年8月25日)の軍艦乗組官等表では三等筆生・掌砲長属・水夫長属・艦長端舟長・大端舟長・甲板次長・檣樓長・按針次長・信号次長・帆縫次長・造綱次長・船艙長・木工長属・火夫次長・鍛冶次長・割烹を二等下士に分類して軍曹相当とした[115]

1872年10月30日(明治5年9月28日)に海軍中等士官曹長以下の禄制を定めたときに、一等中士以下を乗艦の官員に充て、軍曹を含む曹長以下を海兵官員に充てることとした[116]

海兵隊

[編集]

海兵隊は1871年(明治4年8月)から募集編隊を始めており[6]、兵部省官等表の十三等に軍曹を掲載した[33]

明治4年には水兵本部によって海兵の軍曹を命ずる例が見られる[注釈 27]

海兵隊の軍曹・伍長は諸艦の裨官[注釈 28]並びに押伍官[注釈 29]に準じ取り扱うとし[6]1872年4月12日(明治5年3月5日)に各艦乗組裨官は改めて軍曹を命じている[121] [122]

1872年5月21日(明治5年4月15日)から降級・昇級等については少尉以下軍曹までは海軍省において伝達することとし[114]、明治5年には海軍省によって軍曹を任官する例が見られる[注釈 30]

1873年(明治6年)5月8日に陸軍と揃えるために海軍武官官等表を改正し軍曹を十二等にした[128]。この際に海軍省が定めた曹長以下の外国名との比較によると軍曹をサーヂェントに対応させている[129]

1875年(明治8年)11月12日に布告した海軍武官及文官服制(明治6年11月改定)の海兵隊服制・下によると、砲兵・歩兵とも練兵教授・教佐附一等書記課軍曹[注釈 31]の帽は曹長と同じで、一等大砲教授課軍曹と一等小銃射法教授課軍曹の両腕にある桜花は2等・3等ではこれを除き、旗章軍曹の両腕には旗がある。これらの軍曹は隊附・教佐附二等書記課・主計課・病室附・武器課・砲車課・給養附一等書記課軍曹と区別した、常服の両腕の山形線の数は砲兵・歩兵とも軍曹は3本である[130]

1875年(明治8年)に発行された官職一覧によると[注釈 17]、軍曹の職掌は曹長に亜ぐもので、各隊に附属して命を中少尉及び曹長に聴き、これを伍長以下の諸員に令す。そして諸物具を保存するに注意する等は、ことにこの官の掌るところになるとされた[131]

1876年(明治9年)8月に海兵を解隊した[7]。 その後、配置転換が完了したことから、1878年(明治11年)2月19日に海軍文武官官等表から海兵部の部目を削除して海兵隊の軍曹は完全に廃止された[8]

自衛隊

[編集]

曹という呼称は使用せず、「1曹」、「2曹」、「3曹」というように等級と組み合わせた略称で呼称する。

旧陸軍及び自衛隊双方に曹長という階級が存在するため、自衛隊の曹長はそのまま旧陸軍の曹長や旧海軍の上等兵曹相当、曹長の下の1曹が旧陸軍の軍曹や旧海軍の一等兵曹相当であると誤解されがちだが、これは間違い。自衛隊には元々曹長という階級は設けられておらず、1曹が旧軍の曹長や上等兵曹相当であったため、2曹が軍曹や一等兵曹相当である。ちなみに自衛隊の曹長は諸外国陸軍、空軍の上級曹長および海軍の上級上等兵曹に相当する。なお、2等陸曹の英訳がStaff SergeantではなくSergeant First Classなのは、自衛隊創設当時にアメリカ陸軍でStaff Sergeantが廃止されていた時期[注釈 32]であった頃の名残である。なお2等海曹は旧海軍の一等兵曹に相当するが、英呼称ではPetty Officer 2nd classと1942年以前のものが使用されている。

アメリカ陸軍

[編集]

アメリカ陸軍の場合、

  1. 一等軍曹: Sergeant First Class
  2. 二等軍曹: Staff Sergeant
  3. 三等軍曹: Sergeant

が日本語では一般に「軍曹」又は「○○軍曹」と訳される。アメリカ陸軍においては、三等軍曹〜二等軍曹が小隊隷下の分隊長、一等軍曹が小隊長たる尉官の補佐役(小隊付軍曹)として運用される。 「シェブロン」(矢羽)と呼ばれる<<<マークが軍曹の階級章であり、二等、一等と階級が上がる度に「 ) 」(ロッカー。揺り子)が下に1つずつ増え、<<<)))が曹長の階級章である。上級曹長や先任上級曹長になると最下段の矢羽と最上段の揺り子の間にダイヤモンドなどのマークが追加される。 ちなみに<<は軍曹の下位の下士官の伍長<は更にその下の兵長(上等兵ではない)となる。

イギリスの王室騎兵隊

[編集]

イギリスの王室騎兵隊には、「軍曹」(Sergeant)の階級が置かれていない。これは、「軍曹」(Sergeant)という語が「召使い」(Serjeant)に由来するためである(詳細はブルーズ・アンド・ロイヤルズ参照)。

軍曹に関する記録

[編集]
  • 1944年にフランスで行われていたレジスタンス運動では、少年兵まで動員して抵抗運動が行われていた。その中で、6歳の少年がメッセンジャーボーイとして活動中、味方からの攻撃に巻き込まれて死亡。死後、1950年に軍曹に昇格している[132]

軍曹の異名を持つ人物

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 1871年6月27日(明治4年5月10日)に元軍曹並びその他の終身禄を賜う者を永世士族に編入した[3]
  2. ^ 五国対照兵語字書によると軍曹は、フランス語: Sergentドイツ語: Sergeant英語: Sergeantオランダ語: Sergeant にあたる[9]
  3. ^ 同条約の英語の原文では sergeants
  4. ^ 捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第三条約)第60条では捕虜に対する俸給の支払いについて、「軍曹[注釈 3]より下の階級の捕虜」を第1類とし、「軍曹その他の下士官又はこれに相当する階級の捕虜」を第2類としていることから、この条文に従う場合には軍曹はその他の下士官と同様に取り扱う一方で、伍長は「軍曹より下の階級」であるため兵卒と同様に取り扱うなど、「軍曹」という階級は下士官の分類として重要な位置づけとなっている[10] [11]
  5. ^ 戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する1949年8月12日のジュネーヴ条約(第一条約)」では第28条の規定により、紛争当事国は、敵対行為の開始の時から、自国の衛生要員の相互に相当する階級に関して合意しなければならないとされる。そのため条約を遵守してこれを履行しようとするときは、軍曹に相当する衛生要員の階級について相互に認定することになる。
  6. ^ 1870年1月5日(明治2年12月4日)に刑部省から太政官弁官宛てに軍曹から歩兵までの職名と等級について問い合わせがあり、これを弁官から兵部省へ照会し、兵部省は軍曹については職原抄にも鎮守府軍曹従八位上とあるので先ず従八位相当の取り扱いと致しておき、その他それぞれの等級などについては調査してから大綱を申し出るつもりで、その後に内容を知らせると回答した[12]。しかし、1870年4月30日(明治3年3月30日)に当時の軍曹を廃止して士族に編入したことから[2]、1870年10月12日(明治3年9月18日)の太政官の沙汰では、陸軍大佐以下権曹長以上の官位相当を定めたが軍曹以下については定めていない[13]
  7. ^ 1870年10月26日(明治3年10月2日)に陸軍はフランス式を斟酌して常備兵を編制する方針が示され、各藩の兵も陸軍はフランス式に基づき漸次改正編制させていった[14]
  8. ^ 軍曹は古代中国でも見られる官職名から起用したものであるが、日中両言語における同義部分がある他に日本語の場合はさらに独自の意味を持ち新式軍隊の階級として使用している。しかしこの語義は現代中国語には還流できず、あるいは還流できたとしても最終的に定着しなかったと考えられる[15]。 荒木肇は、律令制の官職名が有名無実となっていたことを踏まえて、名と実を一致させる。軍人は中央政府に直属させる。などの意味合いから鎮守府から軍曹の官名を採用したのではないかと推測している[16]
  9. ^ 明治4年7月調べの七日市藩の官員取調帳に七日市藩軍曹が2人掲載されている[17]
  10. ^ 1971年7月12日(明治4年5月25日)に小泉清二郎ほか31名に軍曹を命じた[20]。 同日に横山幸次郎に会計書記軍曹を命じ、荻野助六に倉庫掛軍曹を命じた[21]。 同日に小林瀧三郎に喇叭軍曹を命じた[22]。 同日に高橋貞二ほか7名に給養軍曹を命じ[23]、堤繁ほか7名に射的軍曹を命じた[24] [25]。 同年7月16日(同年5月29日)に各小隊の軍曹を等級を命じている[26] [27]
  11. ^ 陸軍恩給令では服役年の始期は明治4年8月を以って始期とするため、その以前より勤仕の者であったとしても総て同月を始期とした[32]
  12. ^ a b 1873年(明治6年)5月8日の陸海軍武官官等表改正で伍長を判任の下士と改定して下士の最下級としたため[34]、改定前に元教導隊及青年舎生徒より伍長拝命の者は1873年(明治6年)5月16日から下士になったことにした[35]
  13. ^ 明治5年から明治6年にかけて大阪鎮台が旧和歌山藩の歩兵下司であった者を陸軍四等軍曹から陸軍三等軍曹、陸軍二等軍曹、陸軍一等軍曹へと命ずる例が見られる[41]
  14. ^ a b 明治4年の給俸諸定則の軍曹の日給と明治6年の陸軍武官俸給表の軍曹の俸給1日分とを比較する。このとき明治4年の給俸諸定則において1000文が金1両と同額でこれと金4分あるいは金16朱も同額であり、また明治6年の陸軍武官俸給表において100が1と同額で従前の金1両と1圓が同額であるとする。
    • 従前の曹長の日給永250文は、
    曹長の分課が歩で近衛の俸給1日25銭と同額、また、
    軍曹の分課が砲で等級が一等で近衛の俸給1日22銭4よりも多い
    • 従前の曹長心得の日給永167文は従前の曹長の日給の約2/3[44]
    曹長の分課が歩で鎮台の俸給1日23銭4よりも少ない、また、
    権曹長の分課が歩で等級が二等で鎮台の俸給1日18銭4厘よりも少ない、また、
    軍曹の分課が歩で等級が一等で鎮台あるいは
    軍曹の分課が騎で等級が二等で鎮台の俸給1日16銭7厘と同額
    • 従前の権曹長の日給永217文は従前の曹長の日給の約13/15で、
    権曹長の分課が歩で等級が一等で近衛の俸給1日21銭7厘と同額、また、
    軍曹の分課が砲で等級が一等で近衛の俸給1日22銭4毛よりも少なく、
    軍曹の分課が騎で等級が一等で近衛の俸給1日20銭2厘1毛よりも多い
    • 従前の権曹長心得の日給永144文は従前の権曹長の日給の約2/3[44]
    権曹長の分課が歩で等級が二等で鎮台の俸給1日18銭4厘よりも少ない、また、
    軍曹の分課が歩で等級が二等で鎮台の俸給1日15銭よりも少なく、
    伍長の分課が砲で等級が一等で近衛の俸給1日14銭1厘1毛よりも多い
    • 従前の一等軍曹の日給永184文は従前の曹長の日給の約11/15で、
    権曹長の分課が歩で等級が二等で鎮台の俸給1日18銭4厘と同額、また、
    軍曹の分課が歩で等級が一等で鎮台の場合は従前の二等軍曹の日給と同じ額に減額、近衛の場合は鎮台の俸給に1割増額した俸給1日18銭3厘7毛でやや減額、
    軍曹の分課が騎で等級が一等の場合は近衛・鎮台の違いに応じて分課が歩の俸給に約1割増額して、鎮台の場合は俸給1日18銭3厘7毛でやや減額、
    軍曹の分課が砲の場合も同様に分課が歩の俸給に約2割増額
    • 従前の二等軍曹の日給永167文は従前の曹長の日給の約2/3で、
    軍曹の分課が歩で等級が一等で鎮台の場合は俸給1日16銭7厘で同額、近衛の場合は鎮台の俸給に1割増額、
    軍曹の分課が騎で等級が一等の場合は近衛・鎮台の違いに応じて分課が歩の俸給に約1割増額、分課が砲の場合も同様に約2割増額
    • 従前の三等軍曹の日給永150文は従前の曹長の日給の3/5で、
    軍曹の分課が歩で等級が二等で鎮台の場合は俸給1日15銭で同額、
    軍曹の分課が騎で等級が二等で鎮台の場合は従前の二等軍曹の日給と同じ額に増額、
    軍曹の分課が砲で等級が二等で鎮台の場合は分課が騎の俸給に1割増額
    • 従前の四等軍曹の日給永134文は従前の曹長の日給の約8/15で、
    軍曹の分課が歩で等級が二等で鎮台の場合は従前の三等軍曹の日給と同じ額に増額、
    軍曹の分課が騎で等級が二等で鎮台の場合は従前の二等軍曹の日給と同じ額に増額、
    軍曹の分課が砲で等級が二等で鎮台の場合は分課が騎の俸給に1割増額、また、
    伍長の分課が砲で等級が一等で近衛の俸給1日14銭1厘1毛よりも少なく、
    伍長の分課が騎で等級が一等で近衛の俸給1日12銭9厘4毛よりも多い
    • 従前の軍曹心得の日給永122文は従前の一等軍曹の日給の約2/3[44]
    軍曹の分課が歩で等級が二等で鎮台の俸給1日15銭よりも少ない、また、
    伍長の分課が騎で等級が一等で近衛の俸給1日12銭9厘4毛よりも少なく、
    伍長の分課が歩で等級が一等で近衛の俸給1日11銭7厘6毛よりも多い
    • 従前の一等伍長の日給永92文は従前の一等軍曹の日給の1/2あるいは従前の曹長の日給の約11/30で、
    軍曹の分課が歩で等級が二等で鎮台の俸給1日15銭よりも少ない、また、
    伍長の分課が騎で等級が一等で鎮台の俸給1日9銭2厘4毛に近く、
    伍長の分課が歩で等級が一等で鎮台あるいは
    伍長の分課が騎で等級が二等で鎮台の俸給1日8銭4厘よりも多い[43][45]
  15. ^ このとき陸軍武官官等表で官等十一等から十三等までに相当する曹長・軍曹・伍長を下士と表記した[34]
  16. ^ 1873年(明治6年)7月8日から曹長と軍曹の採用・離職はその所管長官(近衛都督・鎮台長官・兵学頭)が行うことにする[52]。ただし、伍長の採用・離職は従前の通り大隊長限りとした[53] [54]。また、1874年(明治7年)1月1日から曹長と軍曹は本省、伍長は各所管長官に於いて採用・離職を命じることにした[54]
  17. ^ a b 官職一覧・上の冒頭に記された凡例によると、この官職一覧は本邦の官省職制の概略を記載して、専ら世間の年若い者が官吏の社会の一部を窺い知ること期待するとしている[63]
  18. ^ 屯田兵を兵科と明言しないため各兵科ではなく各兵という。北海道屯田兵は明治15年2月に陸軍省に移管となっていることから陸軍武官官等表に掲載することにしたが、現在の5種兵に組み入れることが難しいため別に屯田兵の項目を設けた。当初の陸軍省案では屯田兵科の名称を設けるとしたが、参事院の審査では屯田兵を兵科とすると他の兵科との衡平を失うため陸軍兵科とは明言せず唯屯田兵は陸軍兵の一部と言えば十分とした[75]
  19. ^ 閣議の趣旨説明によれば、屯田兵科はこれまで一兵科の単称であったところ、明治23年屯田兵条例及び陸軍定員令の制定により明治24年4月1日より漸次編成を改め屯田歩兵・騎兵・砲兵・工兵は各その兵科を区別できるようにするので、ただ屯田のみを以って兵科にするときは編制・戦術及び職員の転科・服制等に支障を生ずるので改めた[83]
  20. ^ 従来は下士の出身が同一であり同一の種類の下士であることから軍曹を一等・二等に区分してきたが、下士制度を改正し1年服役の短期下士と長期下士を設けたことから、短期下士に伍長の官名を用いて平時は軍曹に進級させないことにして、長期下士は初任は伍長として軍曹に進級させることにした。また火工下士は廃止して砲兵長期下士の分課とした[86]
  21. ^ 閣議の趣旨説明によると、陸軍屯田歩兵・騎兵・砲兵・工兵軍曹の官名を削除したのは、第7師団の編成が完成し現役の屯田兵は明治37年4月1日に悉く後備役に編入したことから屯田兵条例改正の結果とした[88] [89]
  22. ^ 閣議の趣旨説明によると、陸軍武官の各兵科の区分を廃止し、別に陸軍技術に従事する武官のため新たに技術部を設ける必要があるためとした[94]
  23. ^ 1870年6月1日(明治3年5月3日)には、横須賀長崎横浜製鉄場総管細大事務委任を命ぜられた民部大丞山尾庸三に対して、思し召しにより海軍はイギリス式によって興すように指示している[101]
  24. ^ 水兵本部は専ら海軍海兵隊及び砲兵隊を管轄する[104]
  25. ^ 1872年9月11日(明治5年8月9日)に海軍省内で諸工水火夫掛より軍務局へ伺いがあり、曹長・権曹長・軍曹・伍長の職名は英国海軍官名録にはないため、諸工水火夫掛において管轄になるものは海軍官名録の中から適切な職名に改めたいこと、また、曹長以下の職名のものはすべて水兵本部[注釈 24]において管轄になる理解していると申し入れがあり、これに対して軍務局は追って改正するまでは従前の通りと答えている[103]
  26. ^ 海軍では下士以下は箱館を平定した明治2年5月以前[105]は服役年に算入しないが[106]、明治元年から明治3・4年の際に政府直隷の艦船及び旧諸藩より献納した艦船における乗組員の官職名のうち実地軍人の職務に従事していたものは、官等表に掲載する純然たる本官ではなくとも服役年計算の際に総て軍人として取り扱うことにしている[107]。艦船乗組員の官職名のうち下士以下には一等下士官・二等下士官・機関士補・水火夫小頭・水火夫小頭助・楽手・一二三等水火夫等がある[108] [109] [110] [107]
  27. ^ 1871年11月25日(明治4年10月13日)に天野武三郎に海兵軍曹を命じた[117]。 1872年1月24日(明治4年12月15日)に水勇の二木小見郎、瀬之口壮介、長野唯衛、桑波田十郎に水勇軍曹を命じた[118]
  28. ^ 裨官は英国のサアヂヱントの訳語[119]
  29. ^ 押伍は英国の歩兵に関する訳語としては、隊列が乱れないようにする役割である[120]
  30. ^ 1872年5月23日(明治5年4月17日)に野砲兵伍長の桑原与三を軍曹に任じた[123]。 同年5月28日(同年4月22日)に三等伍長の富山左右太を軍曹に任じた[124]。 同年6月1日(同年4月25日)に楽手で三等伍長の尾崎平次郎を軍曹に任じた[125]。 同年7月15日(同年6月10日)に海兵伍長の別府壮七を海軍軍曹に任じた[126]。 明治5年5月調べの官員全書(海軍省)には明治5年4月任海軍軍曹の桑原忠明が掲載されている[127]
  31. ^ 教佐は英国のアヂウタントの訳語[119]
  32. ^ 1948年から1956年まで。ただし、階級章はStaff Sergeantのものを使用。

出典

[編集]
  1. ^ 「浮浪勤王ノ士ヲ挙ケ軍曹トナシ俸禄ヲ給ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070839300、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百六巻・兵制・陸海軍官制(国立公文書館)
  2. ^ a b 「軍曹ノ称ヲ廃シ士族ニ編入ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070071100、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十巻・制度・種族五(国立公文書館)
  3. ^ 「元軍曹并其他ノ終身禄ヲ賜フモノ更ニ永世士族ニ編入ノ旨ヲ東京府ニ令ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070073500、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第十巻・制度・種族五(国立公文書館)
  4. ^ a b c d 「各藩ノ常備兵編制法ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070861600、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百八巻・兵制・徴兵(国立公文書館)(第2画像目から第3画像目まで)
  5. ^ a b c d 「単行書・大政紀要・下編・第六十五巻・官職八・陸軍武官」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017112800、単行書・大政紀要・下編・第六十五巻・官職八・陸軍武官(国立公文書館)(第7画像目)
  6. ^ a b c 国立公文書館、請求番号:太00457100、件名番号:017(第4画像目から第5画像目まで)
  7. ^ a b 「海兵ヲ解隊シテ水夫ニ採用シ改テ水兵ト称ス」国立公文書館、請求番号:太00465100、件名番号:077、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百四十二巻・兵制四十一・雑
  8. ^ a b 「海軍文武官官等表中海兵部ヲ廃ス」国立公文書館、請求番号:太00651100、件名番号:002、太政類典・第三編・明治十一年~明治十二年・第四十七巻・兵制・武官職制二
  9. ^ 室岡峻徳、若藤宗則、矢島玄四郎 ほか 編『五国対照兵語字書』 〔本編〕、参謀本部、東京、1881年2月、871頁。NDLJP:842999/444 
  10. ^ 捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(第三条約)(昭和28年10月21日条約第25号)”. 防衛省・自衛隊. 所管法令等. 防衛省. 2022年11月25日閲覧。
  11. ^ Convention (III) relative to the Treatment of Prisoners of War. Geneva, 12 August 1949.” [捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(第三条約)]. INTERNATIONAL COMMITTEE OF THE RED CROSS. Treaties, States Parties and Commentaries. INTERNATIONAL COMMITTEE OF THE RED CROSS. 2022年11月25日閲覧。
  12. ^ 「刑部省軍曹以下ノ職名并等級等ノ事ヲ兵部省ニ照会ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070837100、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百六巻・兵制・陸海軍官制(国立公文書館)
  13. ^ ウィキソース出典 太政官『海陸軍大中少佐及尉官及陸軍曹長權曹長ヲ置ク』。ウィキソースより閲覧。 
  14. ^ a b 「常備兵員海軍ハ英式陸軍ハ仏式ヲ斟酌シ之ヲ編制ス因テ各藩ノ兵モ陸軍ハ仏式ニ基キ漸次改正編制セシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070892100、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百十四巻・兵制・雑(国立公文書館)
  15. ^ 仇子揚 2019, pp. 88–89, 附録44.
  16. ^ 荒木肇陸軍史の窓から(第1回)「階級呼称のルーツ」」(pdf)『偕行』第853号、偕行社、東京、2022年5月、2023年11月12日閲覧 
  17. ^ 「官員取調帳」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A20040526300、第一類参考書・藩制録之部・第六号奈之部(成羽、苗木、七日市)・明治3年~同4年(国立公文書館)(第4画像目)
  18. ^ 「薩長土ノ三藩ニ令シテ御親兵ヲ徴シ兵部省ニ管轄セシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070858800、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百八巻・兵制・徴兵(国立公文書館)
  19. ^ 「東山西海両道ニ鎮台ヲ置キ兵部省ノ管轄ニ属ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070838700、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百六巻・兵制・陸海軍官制(国立公文書館)
  20. ^ 「5月25日 小泉清二郎外31名軍曹申付」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10070831600、明治4年従正月至7月 省中達留(防衛省防衛研究所)
  21. ^ 「5月25日 横山幸次郎会計書記軍曹申付及荻野助六倉庫掛軍曹申付」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10070854200、明治4年4月~5月 陸軍諸達 利4(防衛省防衛研究所)
  22. ^ 「5月25日 1等小林瀧三郎喇叭軍曹申付及小峯義之助喇叭伍長申付」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10070854300、明治4年4月~5月 陸軍諸達 利4(防衛省防衛研究所)
  23. ^ 「5月25日 高橋貞二外7名外給養軍曹申付」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10070854700、明治4年4月~5月 陸軍諸達 利4(防衛省防衛研究所)
  24. ^ 「5月25日 堤繁外7名射的軍曹申付」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10070854800、明治4年4月~5月 陸軍諸達 利4(防衛省防衛研究所)
  25. ^ 「5月25日 高橋貞二外7名給養軍曹申付他」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10070831500、明治4年従正月至7月 省中達留(防衛省防衛研究所)
  26. ^ 「第2連隊第1大隊 5月29日 1番小隊~8番小隊右の通り軍曹等級申付相達」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10070859800、明治4年4月~5月 陸軍諸達 利4(防衛省防衛研究所)
  27. ^ 「第2連隊第2大隊 5月29日 1番~8番小隊右の通り軍曹等級申付相達」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10070860600、明治4年4月~5月 陸軍諸達 利4(防衛省防衛研究所)
  28. ^ JACAR:A15070878800(第24画像目)
  29. ^ a b JACAR:A15070878800(第25画像目、第31画像目)
  30. ^ 「親兵ノ徽章ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070879100、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百十一巻・兵制・徽章一(国立公文書館)(第1画像目から第2画像目まで、第8画像目)
  31. ^ a b 「兵部省陸軍下等士官給俸及賑恤扶助定則ヲ制定ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070883000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百十三巻・兵制・会計(国立公文書館)(第1画像目から第3画像名まで)
  32. ^ JACAR:A15110505000(第9画像目から第10画像目まで)
  33. ^ a b c 「兵部省官等改定・二条」国立公文書館 、請求番号:太00424100、件名番号:001、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百二巻・兵制一・武官職制一(第2画像目)
  34. ^ a b c d 国立公文書館、請求番号:太00424100、件名番号:004(第1画像目から第2画像目まで)
  35. ^ 「元教導隊及青年舎生徒ヨリ伍長ヲ下士ト改定前伍長拝命ノ者服役期限算定方」国立公文書館、請求番号:太00429100、件名番号:083、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百七巻・兵制六・武官職制六
  36. ^ 「豊明節会ニ酒肴ヲ下賜シ諸兵隊夫卒ニ及ブ」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023132900、公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年~明治八年・第六巻・明治四年~明治八年(国立公文書館)
  37. ^ 「陸軍軍曹ヨリ兵卒ニ至ルマテノ等級照会」国立公文書館 、請求番号:太00424100、件名番号:002、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百二巻・兵制一・武官職制一
  38. ^ 「乙3号大日記 陸軍省より回答 天長節酒饌料被下方の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09110592100、公文類纂 明治5年 巻22 本省公文 理財部7(防衛省防衛研究所)
  39. ^ 「新年宴会軍人ニ酒饌被下方ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023133800、公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年~明治八年・第六巻・明治四年~明治八年(国立公文書館)
  40. ^ a b 「鎮台分営士官心得勤辞令書式ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023301700、公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年~明治八年・第三十二巻~第三十五巻・明治元年~明治八年(国立公文書館)
  41. ^ 「田村泰履歴書(明3年6月~明治10年3月)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09084439600、諸綴込 明治10年9月2日~12年2月14日(防衛省防衛研究所)(第1画像目から第2画像目まで)
  42. ^ a b 「陸軍徽章増補改定」国立公文書館、請求番号:太00450100、件名番号:005、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百二十八巻・兵制二十七・徽章一(第2画像目から第3画像目まで)
  43. ^ a b c 「兵部省陸軍・士官兵卒・給俸諸定則ヲ制定ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070883300、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百十三巻・兵制・会計(国立公文書館)(第3画像目から第4画像名まで)
  44. ^ a b c d 「会計局より下士心得勤日給表決定に付一般へ達の儀申出」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04025322100、明治5年 「大日記 壬申 6月 省中之部 辛」(防衛省防衛研究所)
  45. ^ a b c 「陸軍武官俸給表」国立公文書館、請求番号:太00455100、件名番号:003、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百三十三巻上・兵制三十二上・会計一上(第1画像目から第3画像目まで)
  46. ^ 「陸軍武官俸給表」国立公文書館、請求番号:太00455100、件名番号:003、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百三十三巻上・兵制三十二上・会計一上(第4画像目)
  47. ^ 「陸軍給養同備考」国立公文書館、請求番号:太00455100、件名番号:005、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百三十三巻上・兵制三十二上・会計一上(第5画像目)
  48. ^ JACAR:A15112559500 (第1画像目から第2画像目まで)
  49. ^ JACAR:A15112559500 (第10画像目)
  50. ^ a b c JACAR:A15112559500 (第3画像目から第5画像目まで)
  51. ^ a b c JACAR:A15112559500 (第7画像目から第10画像目まで)
  52. ^ 国立公文書館、請求番号:太00429100、件名番号:056(第1画像目)
  53. ^ 国立公文書館、請求番号:太00429100、件名番号:056(第2画像目)
  54. ^ a b 「曹長軍曹ハ本省伍長ハ各所管長官ニ於テ進退」国立公文書館、請求番号:太00429100、件名番号:062、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百七巻・兵制六・武官職制六
  55. ^ 「陸軍武官表・四条」国立公文書館、請求番号:太00424100、件名番号:015、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百二巻・兵制一・武官職制一(第1画像目から第2画像目まで)
  56. ^ 「各鎮台等ヨリ下士官黜陟届出方」国立公文書館、請求番号:太00429100、件名番号:060、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百七巻・兵制六・武官職制六
  57. ^ 「列外書簡掛権曹長当分二等曹長ト心得シム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023097900、公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年~明治八年・第一巻・明治四年~明治八年(国立公文書館)
  58. ^ 「陸軍歩騎砲工輜重兵編制表・其四」国立公文書館、請求番号:太00465100、件名番号:008、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百四十二巻・兵制四十一・雑(第2画像目から第17画像目まで)
  59. ^ 「屯田憲兵設置ノ条例ヲ定ム」国立公文書館、請求番号:太00343100、件名番号:017、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第百二十一巻・地方二十七・特別ノ地方開拓使一
  60. ^ 「准陸軍大佐以下ノ官等ヲ定ム」国立公文書館、請求番号:太00343100、件名番号:022、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第百二十一巻・地方二十七・特別ノ地方開拓使一
  61. ^ a b JACAR:A04017112800(第13画像目)
  62. ^ 「陸軍武官服制改正・八年十一月二十四日第百七十四号ヲ以テ布告ス布告文並陸軍省伺等ハ同部目ノ第一冊ニ載ス」国立公文書館、請求番号:太00453100、件名番号:001、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百三十一巻・兵制三十・徽章四(第87画像目、第151画像目)
  63. ^ 物集高材 編「凡例」『官職一覧』 上、東京書林 星野松蔵、東京、1875年11月27日。NDLJP:784423/3 
  64. ^ 物集高材 1875, pp. 14–15, NDLJP:784424/14
  65. ^ a b 「八年十二月十七日陸軍給与概則ヲ定ム」国立公文書館、請求番号:太00456100、件名番号:001、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百三十三巻下・兵制三十二下・会計一下(第19画像目から第20画像目まで)
  66. ^ 「四等官以下等級改定」国立公文書館、請求番号:太00236100、件名番号:003、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第十四巻・官制一・文官職制一
  67. ^ 「陸軍職制制定陸軍省職制事務章程及武官官等表改正」国立公文書館、請求番号:太00650100、件名番号:011、太政類典・第三編・明治十一年~明治十二年・第四十六巻・兵制・武官職制一(第1画像目、第14画像目から第18画像目まで)
  68. ^ 「開拓使ヲ廃シ函館札幌根室三県ヲ置ク」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15110012600、公文類聚・第六編・明治十五年・第三巻・官職二・地方庁廃置(国立公文書館)
  69. ^ 「旧開拓使準陸軍武官ヲ陸軍省ニ管轄ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15110075500、公文類聚・第六編・明治十五年・第十五巻・兵制二・陸海軍官制(国立公文書館)
  70. ^ JACAR:A15110464100(第1画像目から第5画像目まで)
  71. ^ JACAR:A04017112800(第14画像目)
  72. ^ 国立国会図書館 2007, p. 10.
  73. ^ 国立国会図書館 2007, p. 241.
  74. ^ a b 「陸軍武官々等表中下士ノ部ヲ改正ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15110810900、公文類聚・第八編・明治十七年・第九巻・兵制・陸海軍官制第一(国立公文書館)(第2画像目から第4画像目まで)
  75. ^ a b 「屯田兵大佐以下ヲ置キ軍楽長ノ官等ヲ改メ且屯田兵条例ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15111027700、公文類聚・第九編・明治十八年・第六巻・兵制・兵制総・陸海軍官制・庁衙及兵営・兵器馬匹及艦船・徴兵(国立公文書館)(第1画像目から第2画像目まで、第5画像目から第7画像目まで)
  76. ^ 「屯田兵大佐以下ノ官名新設ニ付従前准陸軍大佐以下各自ニ同等ノ官名ヲ換称セシム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15111027800、公文類聚・第九編・明治十八年・第六巻・兵制・兵制総・陸海軍官制・庁衙及兵営・兵器馬匹及艦船・徴兵(国立公文書館)
  77. ^ 「御署名原本・明治十九年・勅令第四号・陸軍武官官等表改正」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03020000800、御署名原本・明治十九年・勅令第四号・陸軍武官官等表改正(国立公文書館)
  78. ^ 「判任官官等俸給ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15111089100、公文類聚・第十編・明治十九年・第四巻・官職三・官等俸給(国立公文書館)(第3画像目)
  79. ^ 「御署名原本・明治十九年・勅令第四号・陸軍武官官等表改正」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03020000800、御署名原本・明治十九年・勅令第四号・陸軍武官官等表改正(国立公文書館)
  80. ^ a b 「陸軍海軍武官ノ官等ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15111135300、公文類聚・第十編・明治十九年・第十二巻・兵制一・兵制総・陸海軍官制一(国立公文書館)
  81. ^ 「判任官官等俸給令中改正追加ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15111928900、公文類聚・第十四編・明治二十三年・第七巻・官職四・官等俸給・官省廃置一衙署附(国立公文書館)(第2画像目から第4画像目まで)
  82. ^ a b 「陸軍武官々等表中ヲ改正ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15111992500、公文類聚・第十四編・明治二十三年・第二十巻・兵制二・陸海軍官制一(国立公文書館)(第3画像目から第4画像目まで)
  83. ^ 「陸軍武官々等表ヲ改正ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15112245000、公文類聚・第十五編・明治二十四年・第八巻・官職四・官制四・官等俸給及給与二(陸軍省)(国立公文書館)
  84. ^ a b 「御署名原本・明治二十四年・勅令第二百四十九号・文武判任官等級表」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03020118100、御署名原本・明治二十四年・勅令第二百四十九号・文武判任官等級表(国立公文書館)(第5画像目)
  85. ^ 「御署名原本・明治二十七年・勅令第四十三号・文武判任官等級表改正」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03020173300、御署名原本・明治二十七年・勅令第四十三号・文武判任官等級表改正(国立公文書館)
  86. ^ JACAR:A15113268700(第11画像目から第12画像目)
  87. ^ JACAR:A15113268700(第10画像目)
  88. ^ 「屯田兵条例、明治二十七年勅令第九十五号・(屯田兵服役志願ノ下士ニ関スル制)・屯田兵移住給与規則及屯田兵給与令ヲ廃止シ○屯田兵下士兵卒タリシ者ノ服役ニ関スル件ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15113489600、公文類聚・第二十八編・明治三十七年・第二巻・官職二・官制二・官制二(大蔵省・陸軍省)(国立公文書館)
  89. ^ 「陸軍武官官等表中ヲ改正ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01200937200、公文類聚・第二十八編・明治三十七年・第四巻・官職四・官制四・官等俸給及給与(外務省~旅費)(国立公文書館)
  90. ^ 「文武判任官等級令ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15113760100、公文類聚・第三十四編・明治四十三年・第六巻・官職門五・官等俸給及給与~旅費(国立公文書館)(第3画像目、第5画像目)
  91. ^ 「明治三十五年勅令第十一号陸軍武官官等表中ヲ改正ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A13100742700、公文類聚・第四十九編・大正十四年・第十巻・官職八・高等官官等俸給及給与~旅費(国立公文書館)
  92. ^ 「明治三十五年勅令第十一号陸軍武官官等表ノ件ヲ改正シ〇昭和六年勅令第二百七十一号陸軍兵ノ兵科部、兵種及等級表ニ関スル件中ヲ改正ス・(官名改正)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A14100567300、公文類聚・第六十一編・昭和十二年・第四十巻・官職三十八・官制三十八・官等俸給及給与附旅費(国立公文書館)(第5画像目、第8画像目)
  93. ^ 「高等官官等俸給令中〇文武判任官等級令中ヲ改正ス・(陸軍武官官等表ノ改正ニ伴フモノ)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A14100565000、公文類聚・第六十一編・昭和十二年・第四十巻・官職三十八・官制三十八・官等俸給及給与附旅費(国立公文書館)(第4画像目から第5画像目まで)
  94. ^ a b c d e f g h i 「昭和十二年勅令第十二号陸軍武官官等表ノ件〇昭和六年勅令第二百七十一号陸軍兵等級表ニ関スル件ヲ改正ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A02030204100、公文類聚・第六十四編・昭和十五年・第六十二巻・官職六十・官制六十・官等俸給及給与(外務省~旅費)(国立公文書館)
  95. ^ 大浜徹也・小沢郁郎(編)『帝国陸海軍事典』同成社、1984年。
  96. ^ a b 「昭和十五年勅令第五百八十号陸軍武官官等表ノ件外七勅令中ヲ改正ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A14101207600、公文類聚・第六十八編・昭和十九年・第三十七巻・官職三十七・官制三十七・官等俸給及給与手当一(国立公文書館)
  97. ^ a b c d e f g h 「昭和十五年勅令第五百八十号陸軍武官官等表ノ件中ヲ改正ス・(陸軍法務官並ニ建築関係ノ技師ヲ武官トスル為及衛生将校等ノ最高官等ヲ少佐マテ進メル為)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03010029300、公文類聚・第六十六編・昭和十七年・第五十七巻・官職五十三・官制五十三官等俸給及給与附手当二(国立公文書館)
  98. ^ a b 「御署名原本・昭和二十年・勅令第二九五号・昭和十五年勅令第五百八十号陸軍武官官等表ノ件外十勅令中改正ニ関スル件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017740300、御署名原本・昭和二十年・勅令第二九五号・昭和十五年勅令第五百八十号陸軍武官官等表ノ件外十勅令中改正ニ関スル件(国立公文書館)
  99. ^ a b 「陸軍監獄官制ヲ改正シ〇陸軍監獄長、陸軍録事、陸軍監獄看守長、陸軍警査又ハ陸軍監獄看守タリシ者ヨリスル陸軍法務部現役武官ノ補充特例〇昭和十五年勅令第五百八十号陸軍武官官等表ノ件外十勅令中改正等ニ関スル件〇昭和二十年法律第四号陸軍軍法会議法中改正法律ノ一部施行期日ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03010224900、公文類聚・第六十九編・昭和二十年・第十四巻・官職八・官制八(陸軍省・第一復員省)(国立公文書館)(第1画像目から第2画像目まで、第14画像目から第23画像目まで)
  100. ^ 「陸軍武官官等表等を廃止する勅令を定める」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A13110684400、公文類聚・第七十編・昭和二十一年・第三十七巻・官職二十八・俸給・給与二・内閣・外務省・内務省~任免一(国立公文書館)(第1画像目から第5画像目まで)
  101. ^ 「海軍ハ英式ニ依テ興スヘキヲ山尾民部権大丞ニ令ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070892000、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百十四巻・兵制・雑(国立公文書館)
  102. ^ 「海軍官名諸艦船トモ英国海軍官名録ノ通リ唱ヘシム」国立公文書館、請求番号:太00432100、件名番号:004、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百十巻・兵制九・武官職制九
  103. ^ a b JACAR:A03023322900(第21画像目から第22画像目まで)
  104. ^ 「海軍条例ヲ定ム」国立公文書館、請求番号:太00431100、件名番号:014、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百九巻・兵制八・武官職制八(第2画像目)
  105. ^ 「海軍退隠令」国立公文書館、請求番号:太00449100、件名番号:021、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百二十七巻・兵制二十六・軍功賞及恤典二(第4画像目)
  106. ^ JACAR:A15110505000(第25画像目から第26画像目まで)
  107. ^ a b 「明治初年官等表ニ掲ケサル艦長以下ノ服役年計算方」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15111034300、公文類聚・第九編・明治十八年・第七巻・兵制・兵学・軍律・徽章・賞恤賜与・雑載(国立公文書館)
  108. ^ 「軍艦副長ノ称ヲ廃シ一等二等士官ヲ以テ命ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070842300、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百六巻・兵制・陸海軍官制(国立公文書館)
  109. ^ 「海軍練習ノ為メ請フテ乗艦スル者ノ月給ヲ廃ス但シ賄料ハ旧ニ依ル」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070884200、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百十三巻・兵制・会計(国立公文書館)
  110. ^ 「兵部省水火夫等月給額ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070884300、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百十三巻・兵制・会計(国立公文書館)
  111. ^ JACAR:A15070878800(第8画像目から第11画像目まで、第20画像目から第21画像目まで)
  112. ^ 内閣官報局「海軍元帥ヨリ水夫マテ彼我ノ称呼ヲ定ム 明治5年正月12日  兵部省」『法令全書』 明治5年、内閣官報局、東京、1889年1月26日、789-790頁。doi:10.11501/787952NDLJP:787952/453 
  113. ^ 「海軍武官彼我ノ称呼ヲ定ム」国立公文書館、請求番号:太00432100、件名番号:003、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百十巻・兵制九・武官職制九
  114. ^ a b 「少尉以下軍曹迄ノ黜陟ハ本省ニ於テ伝達シ其以下ハ所轄ノ艦船ニ於テ伝達セシム」国立公文書館、請求番号:太00432100、件名番号:043、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百十巻・兵制九・武官職制九
  115. ^ 内閣官報局 編「乙第100号 軍艦乗組ノ官等月給改正」『法令全書』 明治5年、内閣官報局、東京、1912年、1038-1039頁。NDLJP:787952/579 
  116. ^ 「海軍中等士官曹長以下ノ禄制ヲ定ム」国立公文書館、請求番号:太00457100、件名番号:057、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百三十四巻・兵制三十三・会計二
  117. ^ 「丁2号大日記 天野武三郎海兵軍曹申付件水兵本部届」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090235600、公文類纂 明治4年 巻6 本省公文 黜陟部3(防衛省防衛研究所)
  118. ^ 「丁5号大日記 水勇二木小児郎外数名軍曹及伍長等の達」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090244100、公文類纂 明治4年 巻7 本省公文 黜陟部4(防衛省防衛研究所)
  119. ^ a b 英国政府 著、粟津銈次郎 訳『英国尾栓銃練兵新式』 1巻、平元秀次郎、平元氏稽古場、東京、1869年(原著1869年)、3頁。NDLJP:843408/3 
  120. ^ 英国政府 著、粟津銈次郎 訳『英国尾栓銃練兵新式』 2巻、平元秀次郎、平元氏稽古場、東京、1869年(原著1869年)、8−9頁。NDLJP:843409/8 
  121. ^ JACAR:A03023322900(第67画像目から第69画像目まで)
  122. ^ 「丁1号大日記 水兵本部申出 各艦裨官並押伍以下改称の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09110028300、公文類纂 明治5年 巻1 本省公文 制度部 職官部(防衛省防衛研究所)
  123. ^ 「測量生大木延建三浦義深外6名達 測量為演習第2丁卯艦乗組廻港申付等件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09110159200、公文類纂 明治5年 巻6 本省公文 黜陟部2(防衛省防衛研究所)(第2画像目)
  124. ^ 「香山永隆外6名達 1等月俸下賜及任官等の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09110163400、公文類纂 明治5年 巻6 本省公文 黜陟部2(防衛省防衛研究所)(第2画像目)
  125. ^ 「橋爪惟馨外3名達 昇等の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09110160600、公文類纂 明治5年 巻6 本省公文 黜陟部2(防衛省防衛研究所)(第2画像目)
  126. ^ 「長田中佐外4名達 実測掛兼算術教授書取調掛申付等件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09110165000、公文類纂 明治5年 巻6 本省公文 黜陟部2(防衛省防衛研究所)(第1画像目)
  127. ^ 「職員録・明治五年五月・官員全書改(海軍省)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A09054277400、職員録・明治五年五月・官員全書改(海軍省)(国立公文書館)(第37画像目)
  128. ^ 国立公文書館、請求番号:太00424100、件名番号:004(第2画像目から第3画像目まで)
  129. ^ 「海軍武官官等改正ニ付曹長以下洋名ノ比較ヲ定ム」国立公文書館、請求番号:太00432100、件名番号:005、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百十巻・兵制九・武官職制九
  130. ^ 「海軍武官及文官服制改定・八年十一月十二日第百六十八号ヲ以テ布告ス布告文並海軍省伺等ハ同部目ノ第二冊ニ載ス」国立公文書館、請求番号:太00454100、件名番号:001、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百三十二巻・兵制三十一・徽章五(第69画像目から第72画像目まで、第82画像目から第85画像目まで)
  131. ^ 物集高材 1875, p. 49, NDLJP:784424/49
  132. ^ 6歳で死去したレジスタンスの英雄、マルセル君に追悼の意 仏休戦記念日式典”. 時事通信 (2020年11月12日). 2020年11月13日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 仇子揚『近代日中軍事用語の変容と交流の研究』関西大学〈博士(外国語教育学) 甲第748号〉、2019年9月20日。doi:10.32286/00019167NAID 500001371617CRID 1110566854280116352https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/151072024年9月4日閲覧 
  • 物集高材 編『官職一覧』 中、東京書林 星野松蔵、東京、1875年11月27日。doi:10.11501/784424NDLJP:784424 
  • 「海軍公文類纂抄録」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023322900、公文別録・海軍公文類纂抄録・明治五年~明治七年・第一巻・明治五年~明治六年(国立公文書館)
  • 「単行書・大政紀要・下編・第六十五巻・官職八・陸軍武官」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017112800、単行書・大政紀要・下編・第六十五巻・官職八・陸軍武官(国立公文書館)
  • 「海軍服制及陸軍徽章ヲ定ム」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15070878800、太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百十一巻・兵制・徽章一(国立公文書館)
  • 「陸海軍武官官等表改正・二条」国立公文書館、請求番号:太00424100、件名番号:004、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百二巻・兵制一・武官職制一
  • 「曹長軍曹任官達方並官記式」国立公文書館、請求番号:太00429100、件名番号:056、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百七巻・兵制六・武官職制六
  • 「海軍官名諸艦船トモ英国海軍官名録ノ通リ唱ヘシム」国立公文書館、請求番号:太00432100、件名番号:004、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百十巻・兵制九・武官職制九
  • 「軍艦乗組官等並日給表・二条」国立公文書館、請求番号:太00457100、件名番号:017、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百三十四巻・兵制三十三・会計二
  • 「陸軍恩給令ヲ改正シ及ヒ海軍恩給令ヲ定ム・四条」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15110505000、公文類聚・第七編・明治十六年・第二十一巻・兵制七・賞恤賜典・雑載(国立公文書館)
  • 「明治ノ初年各種ノ名義ヲ以テ軍隊官衙等ニ奉職セシ者軍人トシテ恩給年ニ算入方」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15112559500、公文類聚・第十六編・明治二十五年・第四十二巻・賞恤・褒賞・恩給・賑恤(国立公文書館)
  • 「陸軍武官官等表〇文武判任官等級表中ヲ改正ス」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15113268700、公文類聚・第二十三編・明治三十二年・第十三巻・官職六・官制六・官等俸給及給与一(内閣~陸軍省一)(国立公文書館)
  • 国立国会図書館 (2007年1月). “ヨミガナ辞書” (PDF). 日本法令索引〔明治前期編〕. ヨミガナ辞書. 国立国会図書館. 2023年1月9日閲覧。

関連項目

[編集]