中国における論理学
中国における論理学、中国論理学(ちゅうごくろんりがく)。一般的に「中国論理学」と言った場合、諸子百家の名家・墨家・荀子などが論じた「名」の思想(通称「名学」「名弁」)を指す[1]。本項では更に、中国におけるインド論理学(因明)や西洋論理学の受容も扱う。
中国に論理学は有ったか
[編集]古代中国に Logic(論理学)に対応する単語は無い。「論理学」という漢語は、明治日本で作られた和製漢語に近い語である[注釈 1]。なお現代中国語では、Logic は「論理」ではなく「逻辑」(ルオジー、拼音: 、繁体字: 邏輯)という音訳が用いられている[注釈 2]。
同様に、古代中国に「論理学」に対応する学問分野も無い。しかしながら、明治日本の哲学研究者たち、とりわけ桑木厳翼は、諸子百家の「名」の思想を「論理学」と結びつけて研究した[4][5][注釈 3]。桑木の研究は、章炳麟や王国維ら清末の知識人にも受容された[6]。以降、中国においても諸子百家の「名」の思想が論理学とみなされるようになった。民国初期には、とりわけ胡適が諸子百家の論理学を掘り下げて研究した[7]。なお、胡適の論理学観は、彼がコロンビア大学留学時に師事していたジョン・デューイの論理学観、すなわちプラグマティズムの論理学観を反映しているとされる[7]。
一方で、「中国に論理学の伝統は無い」という見解も明治からある[8][注釈 4]。すなわち、諸子百家の論理学は秦代以降断絶していること、また論理学としては歪な部分が多いことなどによる。この見解は、中国仏教とインド仏教の対照性(主に因明の不振と禅仏教の言語観)や、中国語と印欧語の対照性(文法上の時制や数・格が無い)などの見解と合わさって、「中国哲学は論理的ではない」「中国人は論理的・抽象的思惟において劣っている」(代わりに現実的思惟に優れている)というステレオタイプの形成に繋がった。そのような見解・ステレオタイプをまとめた書物として、比較思想研究の大家、中村元の1948年の著書『東洋人の思惟方法』がある[10]。同書は1960年に英訳され、国際的に読まれた。同書への批判も兼ねて諸子百家の論理学を研究する学者も多い[11][12][13]。
諸子百家
[編集]『荘子』天下篇(恵施と弁者についての記述)、『荀子』正名篇、『墨子』墨弁、『公孫龍子』などが、中国論理学の文献とみなされる。
因明
[編集]インドから仏教が伝来したのに伴い、因明も伝来した。因明は、中国を経由して朝鮮と日本にも伝えられたが、中国と朝鮮ではやがて廃れてしまった[14]。一方、日本では奈良時代から明治時代に至るまで因明の研究が存続した[14]。
上記の清末の章炳麟は因明にも関心を持っていた[15]。民国初期には諸子百家の論理学とともに再評価された[16]。
近現代の仏教学では、東アジアの因明受容史は長らくマイナーな研究対象だったが、2010年代から積極的に研究されるようになった。詳細は 師 2019 等を参照。
西洋論理学
[編集]明末の1631年、李之藻とフランシスコ・フルタドが、コインブラ大学で使われたアリストテレス論理学の注解書の抄訳『名理探』を刊行した[17]。
清末の1886年、ジョゼフ・エドキンズ(艾約瑟)が、ジェヴォンズ『論理学入門』の漢訳『弁学啓蒙』を刊行した[18]。
1900年代には、厳復がJ.S.ミル『論理学体系』を用いて上海で論理学の講演会「名学会」を開くと同時に[19][20]、同書の漢訳『穆勒名学』や、ジェヴォンズ『論理学入門』の漢訳『名学浅説』を刊行した[21]。厳復は論理学を諸学の基礎として重要視していた[21]。なお、厳復が「名学」という訳語を用いたのは、上記の諸子百家を念頭に置いていたため、というわけではない[22]。厳復は、日本人が作った「論理学」という訳語を浅陋な訳語と評しており[23][22]、そのような背景のもと「名学」と訳していた[22]。
民国初期の1930年代前後には、清華大学の哲学科(zh:清华大学哲学系)を中心地として、金岳霖や沈有鼎が論理学を研究した。当時の清華大学の学者の多くは、1920年に訪中したラッセルの影響を強く受けていた[24]。
1950年代以降の中国大陸外では、金岳霖やクワインの教え子でゲーデルと親交した数理論理学者の王浩(ハオ・ワン)や、新儒家の一人でウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の訳者でもある牟宗三らが活動した。なお、金岳霖・沈有鼎・牟宗三は、諸子百家の論理学についても論じていた[25][26][27]。
中国大陸内では、1950年代から1970年代の文革期にかけて、弁証法論理学が盛んに論じられた一方で、記号論理学の研究は停滞した[28][29]。しかしその後、文革終了後の1979年に、晩年の金岳霖を初代会長として「中国論理学会」(zh:中国逻辑学会)が設立され[30]、記号論理学も研究されるようになった[29]。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]日本語
[編集]- 加地伸行『中國論理學史研究 : 經學の基礎的探究』研文出版〈加地伸行著作集 1〉、2012年(原著1983年)。ISBN 9784876363452。 NCID BB10443494。
- 加地伸行『中国人の論理学』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2013年(原著1977年中公新書)。ISBN 978-4480095374。
- 坂出祥伸「清末における西欧論理学の受容について」『中国近代の思想と科学』同朋舎出版、1983年(原著1965年)。
- 坂出祥伸『東西シノロジー事情』東方書店、1994年。ISBN 4497944158。(95-118頁「明治哲学における中国古代論理学の理解—桑木厳翼を中心として—」初出1966年、船山信一編『明治論理学史研究』理想社、NDLJP:2969953)
- 坂本百大「中国論理学界とその周辺-訪中報告」『科学基礎論研究』第18巻第1号、科学基礎論学会、1986年、45-47頁、doi:10.4288/kisoron1954.18.45、ISSN 0022-7668、NAID 110000132972。
- 志野好伸「論理学者にとっての中国哲学 : 金岳霖・沈有鼎を中心に (大会シンポジウム 世界哲学としての中国哲学)」『中国 : 社会と文化』第35号、中国社会文化学会、2020年7月、67-81頁、ISSN 0912-9308、NAID 40022371762。
- 高田淳 著「中国近代の「論理」研究」、宇野精一・中村元・玉城康四郎 編『講座東洋思想4 中国思想3 墨家・法家・論理思想』岩波書店、1967年。ISBN 978-4130140546 。NDLJP:2969196
- 中島隆博 著「桑木厳翼と中国哲学」、廖欽彬;伊東貴之;河合一樹;山村奨 編『東アジアにおける哲学の生成と発展 間文化の視点から』法政大学出版局、2022年。ISBN 978-4588151231。
- 師茂樹「公開講演 因明研究の現状と課題」『佛教学セミナー』第109号、大谷大学佛教学会、2019年、39-66頁、ISSN 0287-1556、NAID 120006865652。
日本語以外・翻訳
[編集]- Fraser, Chris (2003), “Later Mohist Logic, Ethics and Science After 25 Years”, in Graham, A.C., Later Mohist Logic, Ethics and Science, Chinese University Press, ISBN 978-9622011427
- Graham, A.C. (2003) [1978], Later Mohist Logic, Ethics and Science, Chinese University Press, ISBN 978-9622011427
- 馮友蘭 『中国哲学史』上下巻、商務印書館、1934年
- 馮友蘭 著、柿村峻・吾妻重二 訳『中国哲学史 成立篇』富山房、1995年。ISBN 457-2009023。 (『中国哲学史』上巻の全訳)
- 梅約翰 [Makeham, John]「諸子学与論理学:中国哲学建構的基石与尺度」『学術月刊』、上海市社会科学界聯合会、62-67頁、2007年。doi:10.19862/j.cnki.xsyk.2007.04.008。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 高野繁男によれば、「論理学」という漢語の用例は前近代に無い。「論理」の用例は古くからあるが、意味は Logic と対応しない。[2]
- ^ 中国における Logic の漢訳史は、加地 2012, 第三部三章 が詳しい。加地によれば、「邏輯」という訳語は民国初期の章士釗『邏輯指要』『邏輯文』に由来するとされる[3]。
- ^ 1898年(明治31年)の「荀子の論理説」、および1900年(明治33年)の「支那古代論理思想発達の概説」[4] NDLJP:1037868/167
- ^ マックス・ヴェーバーも『儒教と道教』で、中国哲学の特徴として、論理学の不在を挙げている[9]。
出典
[編集]- ^ 加地 2012.
- ^ 高野繁男「明治初期の翻訳漢語 「論理学」(「百科全書」所収)による」『人文学研究所報』第11巻、神奈川大学人文学研究所、1977年、58頁。
- ^ 加地 2012, p. 329.
- ^ a b 坂出 1994, p. 100-110.
- ^ 中島 2022.
- ^ 梅 2007.
- ^ a b 加地 2012, 第一部一章二 胡適の『先秦名学史』.
- ^ 坂出 1994, p. 95-99.
- ^ M・ウェーバー著、木全徳雄訳『儒教と道教(名著翻訳叢書)』創文社、1971年。211頁。NDLJP:12290796/113
- ^ 中村元『中村元選集 決定版 第2巻 東洋人の思惟方法 2 シナ人の思惟方法』春秋社、1988年(初出1948年)ISBN 978-4393312025。第三節「抽象的思惟の未発達」
- ^ 加地 2013, p. 28;95.
- ^ Graham 2003, p. 66.
- ^ Hansen, Chad (1976), “Mass Nouns and A White Horse Is Not a Horse”, Philosophy East and West (University of Hawaii Press) (26-2): 191, doi:10.2307/1398188
- ^ a b 師 2019, p. 41.
- ^ 湯志鈞「人文研のアーカイブス(9) 章太炎『佛學手稿』」『漢字と情報』第9巻、京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター、2004年10月、7,9、CRID 1050282810526205568、hdl:2433/57069。
- ^ 薮内清訳『墨子』平凡社東洋文庫、1996年。ISBN 4-582-80599-X 225頁。
- ^ 深澤助雄「「名理探」の訳業について」『中国 : 社会と文化』第1巻、1986年。
- ^ 坂出 1983, p. 541.
- ^ 高田 1967, p. 219.
- ^ 永田圭介『厳復 富国強兵に挑んだ清末思想家』東方書店〈東方選書〉、2011年、ISBN 978-4497211132、218;231頁。
- ^ a b 志野好伸「厳復と西周 西洋学術体系の移植をめぐって」『明治大学教養論集』第502巻、2014年、100頁、CRID 1050576059523893248、hdl:10291/17038。
- ^ a b c 加地 2012, p. 334-335.
- ^ 高田淳「厳復の「天演論」の思想 : 普遍主義への試み」『東京女子大學附屬比較文化研究所紀要』第20巻、1965年、24頁、CRID 1050845762587710208。
- ^ ZHANG, Lin『「思想史的事件」としての「ラッセル来訪」再考 : 第一次世界大戦後における「文明」と「近代」への思索』 立命館大学〈博士(文学) 甲第1300号〉、2019年、12頁。doi:10.34382/00010492。hdl:10367/12265。NDLJP:11361619 。
- ^ 馮 1995, p. 293(金岳霖).
- ^ 志野 2020, p. 75(沈有鼎).
- ^ 加地 2012, p. 27(牟宗三).
- ^ 加地 2012, p. 350.
- ^ a b 坂本 1986, p. 45-47.
- ^ “邏輯中国”. www.cnlogic.net. 中国邏輯学会. 2021年2月13日閲覧。
外部リンク
[編集]- Willman, Marshall. "Logic and Language in Early Chinese Philosophy". In Zalta, Edward N. (ed.). Stanford Encyclopedia of Philosophy (英語).
- Fraser, Chris. "Mohist Canons". In Zalta, Edward N. (ed.). Stanford Encyclopedia of Philosophy (英語).
- Fraser, Chris. "The School of Names". In Zalta, Edward N. (ed.). Stanford Encyclopedia of Philosophy (英語).