量子力学における並進演算子(へいしんえんざんし、英: translation operator)とは、ある方向にある大きさだけ粒子や場を移動させる演算子のこと。より具体的には、いかなる変位ベクトル x においても対応する並進演算子 が存在し、x の大きさによって粒子や場を移動させる。例えばもし が位置 r に位置する粒子に作用すると、その結果として粒子の位置は (r + x)になる。
並進演算子は線形かつユニタリーである。並進演算子は運動量演算子と密接に関係している。たとえば、y 方向に無限小だけ移動させる並進演算子は、運動量演算子の y 成分と単純な関係性を持つ。このことにより並進演算子がハミルトニアンと可換、つまり物理法則が並進不変であるとき、運動量保存則が保たれる。これはネーターの定理の一つの例である。
並進演算子 は粒子や場を x だけ動かす。したがって、位置演算子の固有状態 |r⟩ (つまり粒子の位置が確実に r の状態)に を作用させると、その位置は (r + x) に移る。
並進演算子の性質を記述する別の(等価な)方法は、位置空間の波動関数に基づくものである。粒子が位置空間の波動関数 を持ち、 が粒子に作用したとき、新しい位置空間の波動関数 は で定義される。この関係はとするとより覚えやすく、「新しい位置での新しい波動関数の値は、元々の位置での元々の波動関数の値に等しい」[1]。
これら2つの記述が等価であることの例を示す。状態 |a⟩ は、波動関数 に対応する(ここで δ はディラックのデルタ関数)。一方で状態 は、波動関数 に対応する。これらは を満足する。
初等的な物理学では通常、運動量は質量×速度と定義される。しかし並進演算子の観点から運動量を定義する、より基本的な方法がある。
これはより正確には正準運動量と呼ばれ、電磁場中の荷電粒子の場合などでは運動量は質量×速度と等しくなるとは限らない[1]。この運動量の定義が特に重要である理由は、運動量保存則は正準運動量でのみ成り立ち、以下で示すように運動量が質量×速度(「運動学的運動量」と呼ばれる)として定義されたときは、普遍的に成り立つわけではないためである。
(正準)運動量演算子は、原点近くでの並進演算子の勾配として定義される。
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ここで ħ は換算プランク定数である。より具体的に書くと、ˆp はベクトル演算子(つまり3つの演算子からなるベクトル)で、例えばは次のように定義される。
ここでは恒等演算子、ex は x 方向の単位ベクトルである。も同じように定義される。これは、ˆp の最も一般的な定義である。
1次元の場合を考える。上記の一般的定義によると、演算子 が量子状態に作用したときの結果は、状態を x 方向に無限小並進させたときの状態変化の割合に iħ を掛けたものになる。たとえばもし状態が x 方向に並進させたとき全く変化しなければ、運動量の x 成分は0である。
波動関数で表される1つの粒子の場合、ˆp はよりはっきりとした便利な形で書ける。
また3次元では、
のように、位置空間の波動関数に作用する演算子として書ける。これは ˆp のよく知られた量子力学的な表現だが、ここではより基本的な出発点から導出した。
ここまで ˆp を並進演算子から定義した。逆に、並進演算子を ˆp の関数として描くこともできる。並進演算子を N 分割し、その極限をとった無限小並進は ˆp で表すことができる。
よって最終的に得られる表現は、
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ここでexpは演算子の指数関数で、右辺はテイラー級数展開である。x が非常に小さなときは、次のように近似的に表せる。
よって運動量演算子は並進の生成子と言える[4]。
これらの関係が正しいことを確認するには、位置空間の波動関数に作用する並進演算子をテイラー展開すれば良い。指数関数をすべての次数に展開すれば、
よってもし関数が複素平面のある領域において解析的であれば、すべての並進演算子は予想された関数の並進を生成する。
粒子や場を x1 だけ動かした後 x2 だけ動かしたとき、x1 + x2 だけ動かしたことになる。
並進演算子は可逆で、その逆は
証明:
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上述の逐次的な並進の性質と、、すなわち距離 0 だけ並進させる演算子は全ての状態を変化させない恒等演算子と同じであることから導かれる。
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証明:
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なぜなら両辺はどちらも であるからである[1]。
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並進演算子はユニタリーで、特に、
並進演算子がユニタリーであることは、運動量演算子がエルミートであることを示している[1]。
並進演算子が位置基底でのブラに作用すると、
上述の「逐次的な並進」の性質から、ベクトル による並進は、成分方向への並進の積として書くことができる。
ここで ex, ey, ez は単位ベクトル。
並進演算子と位置演算子の交換子は、以下のように書ける。
証明:
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|r⟩ を位置演算子 ˆr の任意の固有値 r に対応する固有ベクトルとすると、次の二式が成り立つ。
この2式の差をとれば上式が示される。
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これは上述の性質を利用して、次のようにも書ける。
ここでは恒等演算子である。
並進演算子は互いに交換し、また運動量演算子はスケール化された無限小並進演算子の和であるため、並進演算子は運動量演算子と交換する。すなわち、
全てのについての並進演算子 の集合 は、逐次的な並進(すなわち関数の合成)の結果として定義される乗法の演算について、
群のすべての公理を満たす。
- 閉包: 2回続けて並進した結果は、別の1回の並進となる(上述の「逐次的な並進」を参照)。
- 単位元の存在: ベクトル0だけの並進は恒等演算子となる。すなわち演算子は何も影響も与えない。これは群の単位元として機能する。
- 全ての元は逆元をもつ: すでに証明した通り、どんな並進演算子 も、逆並進 を逆元として持つ。
- 結合性: となることを要求する。これは関数の合成に基づくすべての群の場合のように、定義により正しい。
よって全ての x での並進演算子 の集合 は群をなす[5] 。この並進群は連続的に無限個の元をもつ連続群である。さらに並進演算子は互いに交換する、すなわち2回並進(2回続けた並進)はその順番に依らない。よって並進群はアーベル群である[6]。
位置の固有状態のヒルベルト空間上での作用する並進群は、ユークリッド空間でのベクトルの加法の群と同型である。
1次元における1つの粒子を考える。古典力学とは違い、量子力学において粒子ははっきり定まった位置も運動量も持たない。量子力学の定式化では、期待値[7]が古典変数として働く。たとえば粒子が状態 にあったとき、位置の期待値は である。ここで ˆr は位置演算子である。
並進演算子が状態に作用したとき、新しい状態が作られる。このときの位置の期待値は、 の位置の期待値にベクトルxを加えたものである。この結果は粒子をその量だけシフトさせる操作から予想されるものと一致している。
一方で、並進演算子が状態に作用したとき、運動量の期待値は変わらない。このことは同じように証明できるが、並進演算子が運動量と交換することを用いる。この結果も予想と一致している。つまり並進によって粒子の速度や質量は変わらず、運動量も変わらない。
量子力学ではハミルトニアンは系のエネルギーとダイナミクスを表す。以下で示すいくつかの状況では、系が並進してもハミルトニアンは不変となる。
この場合、対応する並進演算子は系について対称である。
数学的には、この状況は次のようなときに起こる。
(大雑把に言うと、系を並進させた後にエネルギーの測定をし、並進によって元に戻すと、結局エネルギーを直接測定したことと同じである)。このことは交換子を用いて と書ける。すなわちハミルトニアンが並進演算子と交換する。
まず「全ての」並進演算子が系について対称である場合を考える。以下で見るように、この場合では運動量の保存が起こる。
たとえば宇宙全体の全ての粒子と場を記述するハミルトニアンを ˆH、宇宙全体のすべての粒子と場を同時に同じだけシフトする並進演算子を とすると、これは常に対称である。ˆH は宇宙全体の完全な物理法則を記述し、場所に依存しない。その結果、運動量の保存が宇宙全体で成り立つ。
一方で、ˆH と はただ一つの粒子について言及すると考えられる。このとき並進演算子 が厳密に対称であるのは、粒子が真空中で孤立しているときのみである。それに対応して、1粒子の運動量は通常は保存しない(粒子が他の物質に衝突したときに変化する)が、真空中で孤立しているときは保存する。
運動量保存則とのつながりは次のような考えによるものである。全ての並進演算子が系で対称である(つまり全て ˆH と交換する)と仮定する。
運動量演算子が無限小並進演算子の和で書けるため、このとき ˆH は運動量演算子とも交換しなければならない。
このことはエーレンフェストの定理から得られる(運動量演算子 が時間に依存しないため)。
つまり系のハミルトニアンが連続並進に対して不変であれば、系は運動量保存則を持ち、運動量演算子の期待値は一定となる。これはネーターの定理の一つの例である。
ハミルトニアンが並進不変である特別な場合がある。この並進対称性は、ポテンシャルが周期的であるときに見られる[8]。
一般的に任意の での並進 によってハミルトニアンは不変ではない。ここで は次の性質を持つ。
また、
(ここで は恒等演算子である。上述の証明を参照)。
しかし がポテンシャルの周期 a と一致したときは、
ハミルトニアンの運動エネルギー部分はについての関数で、任意の並進に対して不変であるため、全体のハミルトニアンは次式を満たす。
つまりハミルトニアンは並進演算子と交換する。すなわち同時対角化することができる。よってハミルトニアンはそのような(連続でない)並進について不変である
周期的ポテンシャルでの離散並進 : ブロッホの定理
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完全結晶中のイオンは、規則正しく周期的に配列している。よってすべてのブラベー格子ベクトル R において
の周期性をもつポテンシャル中の電子の問題に行き着く。
しかし完全な周期性は、理想化している。実際の固体は完全に純粋ではなく、不純物原子の周辺の状態はその他の結晶部分の状態と同じではない。さらに実際にはイオンは静止しておらず、平衡位置付近で絶えず熱振動している。これらのことが、結晶の完全な並進対称性を崩している。この問題を扱うため、問題を(a)ポテンシャルが完全に周期的である仮想的な完全結晶と、 (b)小さな摂動として扱われる完全な周期性からのずれの効果という2つの部分に分ける。固体中の電子の問題は、原理的には多電子問題である。しかし独立電子近似では、それぞれの電子は周期ポテンシャル中の1電子シュレーディンガー方程式で記述され、ブロッホ電子と呼ばれる[9] (ブロッホ電子は周期ポテンシャルがあらゆる点で0のときは自由電子となる)。
それぞれのブラベー格子ベクトル R について、関数 f(r) に作用したとき R だけ変数をシフトさせる並進演算子 を定義する。
並進演算子全体はアーベル群を成すため、逐次的な2回並進はそれらが作用する順番に依存しない。つまり、
さらにハミルトニアンが周期的であるとして、
よって全てのブラベー格子ベクトル R におけるとハミルトニアン ˆH は交換する演算子の集合を作る。よって ˆH の固有状態は全ての の同時固有状態に選ぶことができる。
並進演算子の固有値 c(R) は、次の条件とつながっている。
つまり、
また、
よって次の関係が得られる。
ここで をブラベー格子における3つの基本ベクトルとする。 をうまく選ぶと、を常に次のような形に書くことができる。
R が次のように一般的なブラベー格子ベクトルであるとする。
このとき、
を代入すると、
ここで は逆格子ベクトル、 はその基底で を満たす。
よって全てのブラベー格子ベクトル R で、
となるようにハミルトニアンとの同時固有状態 を選ぶことができる。よって以下が成り立つ。
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この結果はブロッホの定理として知られる。
- ^ a b c d Lecture notes by Robert Littlejohn
- ^ Page no.-108, Chapter-2,Volume-1, Claude Cohen-Tannoudji, Bernard Diu, Franck Laloë
- ^ Page no. 68, Section 1.10, R. Shankar, Principles of Quantum Mechanics
- ^ http://master.particles.nl/LectureNotes/2011-QFT.pdf
- ^ Page-816, Chapter-17, Mathematical Methods for Physicists, Seventh Edition, by Arfken, Weber and Harris
- ^ Page-47, Chapter-1, Modern Quantum Mechanics, Second edition, J.J. Sakurai, Jim J. Napolitano
- ^ Page no. 127, Section 4.2, R. Shankar, Principles of Quantum Mechanics
- ^ Chapter-8, Solid State Physics by Neil W. Ashcroft and N. David Mermin
- ^ P-133, Chapter-8, Solid State Physics by Neil W. Ashcroft and N. David Mermin