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下関市営球場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下関市営球場
下関球場、下関市野球場
1974年当時の下関市向洋町(東駅地区)上空。写真左側が旧下関市営球場、その右斜め上が下関市体育館、その更に上が山口県立下関南高等学校、中央は下関市営下関陸上競技場、少し離れて右は下関市立日新中学校(上)、その下は下関市立文関小学校国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
施設データ
所在地 山口県下関市向洋町1-13
開場 1949年11月
閉場 1985年
取り壊し 1985年
所有者 下関市(1950年以降)
管理・運用者 下関市(1950年以降)
収容人員
グラウンドデータ
球場規模 両翼88.4m、中堅115.9m[1]

下関市営球場(しものせきしえいきゅうじょう)は、山口県下関市向洋町の下関運動公園にかつて存在した野球場横浜DeNAベイスターズが「大洋ホエールズ」として設立された当初に本拠地としていたことで知られる。

現存する下関球場(オーヴィジョンスタジアム下関)とは別の施設である。

概要

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1949年(昭和24年)11月、下関に本社を置いていた大洋漁業(現・マルハニチロ)が母体となり、下関を本拠地とするプロ野球球団「まるは球団」を設立。その本拠地球場とするべく、下関市向洋町の大畠練兵場跡地に「(初代)下関球場」が建設された。総工費2500万円のうち2000万円は市民の出資によりまかなわれ、球場の運営も出資者による組合により行われた[2]が、この試みは早々に頓挫し、運営が市に移管され「下関市営球場」として運営された。

まるは球団は1950年に「大洋ホエールズ」に改名され、セントラル・リーグ(セ・リーグ)に加盟し、セ・リーグの開幕戦を当球場で実施(後述)。セ・リーグにフランチャイズ制が導入された1952年には当球場を本拠地として使用した[2]。しかし下関での開催は主催60試合中18試合にとどまり、しかも8試合は観衆1000人以下であったという[2]

大洋は翌1953年松竹ロビンスと合併し「大洋松竹ロビンス」(洋松ロビンス)となり、名目上は当球場と京都市西京極総合運動公園野球場の「ダブルフランチャイズ」として登記したものの、下関での主催試合は1954年までの2年間でわずかに5試合(1953年2試合=9月6日の読売巨人軍戦のダブルヘッダー[3]、1954年3試合=4月4日の大阪タイガース戦のダブルヘッダー、4月11日の読売巨人軍戦シングル[4])にとどまり、照明設備や交通の利便性と興行面からほとんどが大阪球場を本拠地として開催するようになった。

松竹が経営撤退し、再び大洋となった1955年に本拠地を川崎球場に移転してからも下関では大洋主催のオープン戦や公式戦がしばしば開催されてきたが、老朽化など設備に不備が目立つようになるなどしたため、1975年を最後に公式戦は開催されなくなっていった。

老朽化のため、1985年(昭和60年)をもって廃止となり、解体。跡地は当時移転新築工事が進められていた下関市立中央病院(現・下関市立市民病院)の建設用地に充てられ、1988年(昭和63年)に新病院が開院した。

主なエピソード

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関連項目

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外部リンク

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出典

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前本拠地:
n/a
-
大洋ホエールズの本拠地
1950 - 1952
次本拠地:
大阪スタヂアム
1953 - 1954