下総飯田藩
下総飯田藩(しもうさいいだはん)は、下総国香取郡下飯田村(現在の千葉県香取市下飯田)に陣屋を置き、江戸時代初期の短期間存在した藩。1608年、青山成重が加増を受け1万石の大名となって成立したが、1613年に大久保長安事件に連座して減封され、廃藩となった。
歴史
[編集]藩主の青山成重(七右衛門、図書助)は、三河譜代の青山家の一族である。元亀2年(1571年)、青山忠重は三河国で戦死したが、継嗣がなかったために、徳川家康の命によって忠重の親族にあたる成重[注釈 2]が家を継いだ[4]。成重は徳川家康に近習として仕え[1]、天正12年(1584年)からは徳川秀忠の傅役を務めた[1]。
天正18年(1590年)、徳川家康が関東に入国すると、青山成重は下総国香取郡で3000石を領した[1][5]。その後、慶長6年(1601年)に下総国内で2000石を加増された[1][5]。
慶長13年(1608年)12月25日、青山成重は老中に任じられる[注釈 3]とともに[1]、下総国内で5000石を加増され、知行高1万石で大名に列した[1][5]。これにより飯田藩が立藩した。
慶長18年(1613年)、大久保長安事件が発生する。成重は大久保長安の三男(青山成国)を養子として迎えていたことから、同年8月に加恩の地7000石を没収の上、下総国香取郡の知行地で「屏居」させられた[1][5]。これにより、飯田藩は廃藩となった。なお、青山成国は同年8月9日に死を賜った[1]。
元和元年(1615年)9月7日、青山成重は赦免を受けないまま、知行地の飯田で没した[1][5]。知行地は一旦収公されるが、実子の青山成次が父の旧領中1000石を改めて与えられた[1]。成次の子・成政は御先鉄炮頭を務め1200石に加増[1]、また子孫の成存が勘定奉行を務めている。
歴代藩主
[編集]- 青山家
譜代。1万石。
- 青山成重(なりしげ)〔従五位下、図書助〕
領地
[編集]下総飯田
[編集]この地域は香取郡と海上郡の郡境に近く[6]、岡飯田と下飯田にかけての山には[7]、中世に森山城が築かれていた[6][7]。
青山家の陣屋(飯田陣屋)は下飯田の西音寺付近に置かれていたという[5][8]。下飯田村(852石)は幕末まで青山家の所領であった[9][5]。陣屋は寛永年間(1624年 - 1644年)に取り壊されたという[8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m 『寛政重修諸家譜』巻第七百三十一「青山」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.933。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第七百二十七「青山」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.909。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第七百三十一「青山」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.936。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第七百三十一「青山」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.932-933。
- ^ a b c d e f g 『房総における近世陣屋』, p. 18, PDF版 36/313.
- ^ a b “森山(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月26日閲覧。
- ^ a b 『香取郡誌』, p. 513.
- ^ a b 『香取郡誌』, p. 514.
- ^ “下飯田村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月26日閲覧。
参考文献
[編集]- 『千葉県教育振興財団研究紀要 第28号 房総における近世陣屋』千葉県教育振興財団、2013年 。
- 千葉県香取郡 編『香取郡誌』千葉県香取郡、1921年。NDLJP:965696。