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下総飯田藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

下総飯田藩(しもうさいいだはん)は、下総国香取郡下飯田村(現在の千葉県香取市下飯田)に陣屋を置き、江戸時代初期の短期間存在した。1608年、青山成重が加増を受け1万石の大名となって成立したが、1613年に大久保長安事件に連座して減封され、廃藩となった。

歴史

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下総飯田藩の位置(千葉県内)
千葉
千葉
佐原
佐原
飯田
飯田
関連地図(千葉県)[注釈 1]

藩主の青山成重(七右衛門、図書助)は、三河譜代の青山家の一族である。元亀2年(1571年)、青山忠重は三河国で戦死したが、継嗣がなかったために、徳川家康の命によって忠重の親族にあたる成重[注釈 2]が家を継いだ[4]。成重は徳川家康に近習として仕え[1]、天正12年(1584年)からは徳川秀忠の傅役を務めた[1]

天正18年(1590年)、徳川家康が関東に入国すると、青山成重は下総国香取郡で3000石を領した[1][5]。その後、慶長6年(1601年)に下総国内で2000石を加増された[1][5]

慶長13年(1608年)12月25日、青山成重は老中に任じられる[注釈 3]とともに[1]、下総国内で5000石を加増され、知行高1万石で大名に列した[1][5]。これにより飯田藩が立藩した。

慶長18年(1613年)、大久保長安事件が発生する。成重は大久保長安の三男(青山成国)を養子として迎えていたことから、同年8月に加恩の地7000石を没収の上、下総国香取郡の知行地で「屏居」させられた[1][5]。これにより、飯田藩は廃藩となった。なお、青山成国は同年8月9日に死を賜った[1]

元和元年(1615年)9月7日、青山成重は赦免を受けないまま、知行地の飯田で没した[1][5]。知行地は一旦収公されるが、実子の青山成次が父の旧領中1000石を改めて与えられた[1]。成次の子・成政は御先鉄炮頭を務め1200石に加増[1]、また子孫の成存が勘定奉行を務めている。

歴代藩主

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青山家

譜代。1万石。

  1. 青山成重(なりしげ)〔従五位下、図書助〕

領地

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下総飯田

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この地域は香取郡と海上郡の郡境に近く[6]、岡飯田と下飯田にかけての山には[7]、中世に森山城が築かれていた[6][7]

青山家の陣屋(飯田陣屋)は下飯田の西音寺付近に置かれていたという[5][8]。下飯田村(852石)は幕末まで青山家の所領であった[9][5]。陣屋は寛永年間(1624年 - 1644年)に取り壊されたという[8]

脚注

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注釈

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  1. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  2. ^ 実父は服部正信。母は青山忠教(平大夫)の娘[1]。青山忠教は忠重の叔父にあたる[2][3]
  3. ^ 「奉書に加判すべきむね仰をかうぶる」[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『寛政重修諸家譜』巻第七百三十一「青山」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.933
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第七百二十七「青山」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.909
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第七百三十一「青山」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.936
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第七百三十一「青山」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.932-933
  5. ^ a b c d e f g 『房総における近世陣屋』, p. 18, PDF版 36/313.
  6. ^ a b 森山(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月26日閲覧。
  7. ^ a b 『香取郡誌』, p. 513.
  8. ^ a b 『香取郡誌』, p. 514.
  9. ^ 下飯田村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月26日閲覧。

参考文献

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関連項目

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