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下田広氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
下田広氏
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
別名 広親、通称:七九郎
官位 美作守
幕府 室町幕府 御家人
主君 足利義材義澄
氏族 秦氏後裔下田氏
川勝広継光隆朝政朝道
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下田 広氏(しもだ ひろうじ)は、戦国時代武士

略歴

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下田氏丹波国国人秦河勝の後裔とされる[1]。下田氏(川勝氏)は丹波桑田郡船井郡内を知行し、室町幕府に仕えてきた。

広氏は15世紀末期 - 16世紀初期を生きた人物で、家伝によれば、秦河勝(広隆)より32代目の嫡流とされる。10代将軍・足利義材、11代将軍・義澄に仕えた。丹波桑田郡下田に住していたので下田を称した。『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』ともに、広氏から幕臣川勝氏の系図は始まっている。

先の応仁の乱では、幕府の管領を務めた細川勝元に従って、下田氏(川勝氏)は他の国人衆と共に合戦に参加、丹波の有力な国人領主であったことが窺われる。

脚注

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  1. ^ 家伝(『寛政重修諸家譜』編纂時の呈譜等)によれば、下田美作守広氏は秦河勝(広隆)より32代目の嫡流とされる。しかし、『寛永諸家系図伝』には、広隆と美作守某(丹波国の住人)は「此間断絶す」とある。

出典

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  • 『寛永諸家系図伝(第14)』続群書類従完成会、1992年
  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年

関連項目

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