下八川圭祐
下八川 圭祐 | |
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生誕 | 1900年11月18日 |
出身地 | 高知県 高岡郡 佐川町 |
死没 |
1980年3月18日(79歳没) 日本 |
学歴 |
東洋音楽学校 (現・東京音楽大学) |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 |
声楽家(バス、バリトン) 音楽教育者 |
下八川 圭祐(しもやかわ けいすけ、1900年(明治33年)11月18日[1] - 1980年(昭和55年)3月18日[1])は、日本の声楽家(バス、バリトン)、音楽教育者。藤原歌劇団創設メンバーの一人、二代目総監督。現・学校法人東成学園(昭和音楽大学、昭和音楽大学短期大学部)の創立者。
概要
[編集]1926年(大正15年)東洋音楽学校(現・東京音楽大学)本科声楽科卒業[2]。矢田部勁吉、ベレッティに師事[1]。
1930年(昭和5年)下八川圭祐声楽研究所を創立。ヴォーカル・フォアに参加。1934年(昭和9年)藤原義江とともに藤原歌劇団を創設[3]。同団創設後はその中心メンバーとして『カルメン』の闘牛士役など多くのオペラに出演している[4]。1940年(昭和15年)東京市淀橋区(現・東京都新宿区)に東京声専音楽学校を開設・校長就任。1945年(昭和20年)戦災により校舎焼失。
1947年(昭和22年)夜間部の授業を復活。1952年(昭和27年)東京都新宿区大久保に校舎が完成。1958年(昭和33年)学校法人東京声専音楽学校認可、理事長就任・校長兼任。1969年(昭和44年)に学校法人東成学園に改称認可、神奈川県厚木市に昭和音楽短期大学開学・学長兼任。1972年(昭和47年)藤原義江の委嘱により藤原歌劇団二代目総監督に就任、逝去時までその地位にあった。1976年(昭和51年)「下八川賞」(現・下八川圭祐記念高知音楽コンクール)を創設[1]。同年日伊音楽協会会長就任[2]。
1980年(昭和55年)3月18日逝去。79歳没。
息子は財団法人日本オペラ振興会(現在は公益財団法人日本オペラ振興会)創設者で藤原歌劇団元代表、学校法人東成学園理事長、公益財団法人日本オペラ振興会常務理事の下八川共祐[5]。
受賞歴
[編集]主なディスコグラフィー
[編集]- ヴォルガの船唄 - キングレコードから発売され、好評となった[6]。
- 獨唱 二人の擲彈兵 堀内敬三[譯詩]、杉山長谷雄[編曲 ]、下八川圭祐、キング・サロンオーケストラ(キングレコード 、商品番号:12011_768)[7]
- CD2枚組 あの頃の歌 オムニバス 2006/2/1 日本ウエストミンスター[8]
脚注
[編集]- ^ a b c d e 『下八川圭祐』 - コトバンク
- ^ a b “学園の歩み”. 学校法人東成学園. 2020年3月20日閲覧。
- ^ 藤原歌劇団について日本オペラ振興会
- ^ “[=Find_PerformanceInformation 下八川圭祐]”. 昭和音楽大学オペラ情報センター. 2020年3月20日閲覧。
- ^ 下八川共祐さんタウンニュース
- ^ 中村孝也『野間清治伝』野間清治伝記編纂会、1944年、698頁。NDLJP:1879085/410
- ^ “下八川圭祐”. 国立国立国会図書館 歴史的音源. 2020年3月20日閲覧。
- ^ “あの頃の歌”. Amazon. 2020年3月20日閲覧。