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下八川圭祐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下八川 圭祐
生誕 (1900-11-18) 1900年11月18日
出身地 高知県 高岡郡 佐川町
死没 (1980-03-18) 1980年3月18日(79歳没)
日本の旗 日本
学歴 東洋音楽学校
(現・東京音楽大学
ジャンル クラシック音楽
職業 声楽家バスバリトン
音楽教育者

下八川 圭祐(しもやかわ けいすけ、1900年(明治33年)11月18日[1] - 1980年(昭和55年)3月18日[1])は、日本の声楽家バスバリトン)、音楽教育者藤原歌劇団創設メンバーの一人、二代目総監督。現・学校法人東成学園(昭和音楽大学昭和音楽大学短期大学部)の創立者。

概要

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高知県高岡郡佐川町出身[1]

1926年(大正15年)東洋音楽学校(現・東京音楽大学)本科声楽科卒業[2]矢田部勁吉、ベレッティに師事[1]

1930年(昭和5年)下八川圭祐声楽研究所を創立。ヴォーカル・フォアに参加。1934年(昭和9年)藤原義江とともに藤原歌劇団を創設[3]。同団創設後はその中心メンバーとして『カルメン』の闘牛士役など多くのオペラに出演している[4]。1940年(昭和15年)東京市淀橋区(現・東京都新宿区)に東京声専音楽学校を開設・校長就任。1945年(昭和20年)戦災により校舎焼失。

1947年(昭和22年)夜間部の授業を復活。1952年(昭和27年)東京都新宿区大久保に校舎が完成。1958年(昭和33年)学校法人東京声専音楽学校認可、理事長就任・校長兼任。1969年(昭和44年)に学校法人東成学園に改称認可、神奈川県厚木市に昭和音楽短期大学開学・学長兼任。1972年(昭和47年)藤原義江の委嘱により藤原歌劇団二代目総監督に就任、逝去時までその地位にあった。1976年(昭和51年)「下八川賞」(現・下八川圭祐記念高知音楽コンクール)を創設[1]。同年日伊音楽協会会長就任[2]

1980年(昭和55年)3月18日逝去。79歳没。

息子は財団法人日本オペラ振興会(現在は公益財団法人日本オペラ振興会)創設者で藤原歌劇団元代表、学校法人東成学園理事長、公益財団法人日本オペラ振興会常務理事の下八川共祐[5]

受賞歴

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主なディスコグラフィー

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脚注

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  1. ^ a b c d e 下八川圭祐』 - コトバンク
  2. ^ a b 学園の歩み”. 学校法人東成学園. 2020年3月20日閲覧。
  3. ^ 藤原歌劇団について日本オペラ振興会
  4. ^ [=Find_PerformanceInformation 下八川圭祐]”. 昭和音楽大学オペラ情報センター. 2020年3月20日閲覧。
  5. ^ 下八川共祐さんタウンニュース
  6. ^ 中村孝也『野間清治伝』野間清治伝記編纂会、1944年、698頁。NDLJP:1879085/410
  7. ^ 下八川圭祐”. 国立国立国会図書館 歴史的音源. 2020年3月20日閲覧。
  8. ^ あの頃の歌”. Amazon. 2020年3月20日閲覧。