上山勘太郎 (15代)
15代上山 勘太郎(うえやま かんたろう、前名・英之助[1][2]、1889年9月[3] - 1942年)は、日本の商人(天産物直輸出商)[1][2]、実業家。大日本除虫菊社長を務めた。大日本除虫菊の創業者上山英一郎の長男。
経歴
[編集]和歌山県人・上山英一郎の長男、英三、十六代勘太郎(前名・英夫)の兄である[1][2][3]。先代上山勘太郎の養子となり、1908年、上山家15代の家督を相続し、前名英之助を改め襲名した[1][2][3]。
東京高等商業学校に学び、天産物直輸出商を営んだ[1][2][3]。ユーゴスラビア国に紀州産蜜柑苗を移植[1]、寄贈した[2]。1930年、大日本除虫粉社長に就任した[4]。1939年、日本除虫菊輸出組合理事長に就任した[4]。
大阪商工会議所貿易部長、ユーゴスラビア国日本駐箚名誉領事、大日本除虫菊、朝鮮除虫菊、箕島倉庫運送、関西金鳥販売、東京金鳥販売各社長、南海水力電気、松下電工、信太山ゴルフ各取締役、岸和田煉瓦綿業、日本レイヨン、白浜温泉土地倶楽部、南海鉄道、満州製紙、大阪ゴルフ、上山殖産各監査役などを務めた[1][3]。
1942年、陸海軍嘱託として東南アジアに出張中、シンガポールで航空機事故のため死去した[4]。
人物
[編集]外交官を志したが、養父母の喪に遭い、親族一同の懇望により意志を翻し、郷里にあって上山家の家政を司り、傍ら実父英一郎の片腕となって産業立国のため、郷土の進歩発展のためにと、実業界に活躍する[5]。その型は純英国式の紳士である[5]。
趣味は俳句、ゴルフ[1][2][3]。宗教は浄土宗[1][2][3]。住所は兵庫県西宮市夙川松風町[1]、森具奥畑[2]。大阪府在籍[1][3]。著書には『欧米漫筆』、『実伝紀伊国屋文左衛門』などがある[1]。
家族・親族
[編集]- 上山家
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『人事興信録 第13版 上』う33頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 第11版 上』ウ47 - 48頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第12版 上』ウ38頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月17日閲覧。
- ^ a b c 金鳥のあゆみ 昭和時代(戦前)、大日本除虫菊株式会社公式サイト。
- ^ a b 『非常時日本と人物』99-102頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月22日閲覧。
参考文献
[編集]- 原静村『非常時日本と人物』南海新聞社、1935年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937-1939年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。