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上坂勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上坂 勝
生誕 1892年5月22日
日本の旗 日本 大分県
死没 (1982-07-05) 1982年7月5日(90歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1913年 - 1945年
最終階級 陸軍少将
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上坂 勝(うえさか まさる[1]1892年明治25年)5月22日[2] - 1982年昭和57年)7月5日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。

経歴

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1892年(明治25年)に大分県で生まれた[2]陸軍士官学校第25期卒業[2]1939年(昭和14年)8月1日陸軍歩兵大佐進級と同時に台南陸軍兵事部長に着任した[1]1941年(昭和16年)10月に歩兵第163連隊長(北支那方面軍第110師団・歩兵第133旅団のち第110歩兵団)に転じ[1][2]日中戦争に出動[2]京漢作戦に参加し[2]、覇王城、登封を突破[2]。さらに洛陽攻略では湯恩伯軍を壊滅させる大なる戦果を挙げた[2]。洛陽攻略後は宜陽臨汝の守備に任じた[2]

1945年(昭和20年)5月に歩兵第53旅団長(関東軍第34軍第59師団)に就任し[2]6月10日に陸軍少将に進級した[1]。終戦時は咸興に位置した[2]。戦後はシベリア抑留を受けた[3]1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[4]1950年(昭和25年)7月に綏芬河でソ連から中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収容された[3][5]。戦犯管理所では「学習反省」「認罪坦白」などを行い[6]1956年(昭和31年)6月に開かれた瀋陽特別軍事法廷で懲役18年の判決を受けたが[7]、満期前の1963年(昭和38年)8月に釈放された[7]

脚注

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  1. ^ a b c d 外山 1981, 345頁.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 福川 2001, 113頁.
  3. ^ a b 大澤 2016, 45頁.
  4. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」212頁。
  5. ^ 大澤 2016, 46頁.
  6. ^ 大澤 2016, 59頁.
  7. ^ a b 大澤 2016, 151頁.

参考文献

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  • 大澤武司 著『毛沢東の対日戦犯裁判 : 中国共産党の思惑と1526名の日本人』中央公論新社、2016年。ISBN 4121024060 
  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026