コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

上原六四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上原虚洞から転送)
上原六四郎

上原 六四郎(うえはら ろくしろう、嘉永元年12月3日1848年12月28日[1] - 大正2年(1913年4月1日[2])は、日本の音響学者・美術工芸教育者。

経歴

[編集]

岩槻藩士として江戸に生まれる[3]1869年明治2年)、開成学校に入ってフランス語を学び、翌年大学少得業生となる[3]文部省少助教となり、陸軍士官学校に出仕。軽気球製作御用取扱を命じられた[1]1882年(明治15年)より、文部省専門学務局音楽取調掛勤務、東京職工学校勤務、東京商業学校教諭などを歴任した[1]1889年(明治22年)、東京美術学校数学講師となり、翌年に東京工業学校教諭・東京美術学校教諭となった[1]1890年(明治23年)に東京工業学校教授・東京美術学校教授となり、翌年に東京工業学校附属職工徒弟学校主事となった[1]1891年(明治24年)、東京音楽学校教授・東京美術学校教授に転じた[1]1893年(明治26年)、東京音楽学校が高等師範学校附属音楽学校に改編されると、その主事に任命された[1]。また1898年(明治31年)には東京美術学校で応用化学の授業を担当した[3]1899年(明治32年)、東京音楽学校が再び独立すると、高等師範学校教授と東京音楽学校教授を兼ね、高等師範学校では手工専修科主任教授となった[1]1902年(明治35年)に退官するが、引き続き東京音楽学校では音楽史音響学の講師を、東京高等師範学校では手工科の講師を務めた[1]

著書

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i 正四位勲五等上原六四郎」 アジア歴史資料センター Ref.A10112762500 
  2. ^ 『新撰 芸能人物事典 明治~平成』日外アソシエーツ、2010年。
  3. ^ a b c 日本現今人名辞典 1903.

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]
公職
先代
(新設)
日本の旗 東京高等工業学校附属職工徒弟学校主事
1891年
次代
三宅正雄