三笠万里子
みかさ まりこ 三笠 万里子 | |
---|---|
本名 | 横田シナ |
生年月日 | 1893年12月26日 |
没年月日 | 1972年3月30日(78歳没) |
出身地 | 日本・大阪市浪速区 |
職業 | 女優、専業主婦 |
ジャンル | 舞台女優、映画女優 |
活動期間 | 1912年 ‐ 1924年 |
配偶者 | 佐藤紅緑 |
著名な家族 |
佐藤愛子 サトウハチロー |
主な作品 | |
舞台 『女文士』(1913年) 『鳩の家』(1916年) 『復活』 『サロメ』 『マグダ』(1925年) など 映画 『小豆島』(1924年) 『母』(1924年) 『光明の前に』(1924年) 以上3作品 |
三笠万里子(みかさ まりこ、1893年(明治26年)12月26日[1] - 1972年(昭和47年)3月30日[1])は、大正・昭和期の日本の舞台女優、映画女優。本名は横田シナ[1]。配偶者は、小説家佐藤紅緑[注 1]。直木賞作家佐藤愛子の母[1]。
生涯
[編集]大阪市浪速区新川に9人兄弟の次女として生まれる。女学校、女工、関西英学校と経歴を重なるが、1912年(大正元年)に神戸市の聚楽館附属女優養成所に入所し女優としてのキャリアがスタート。1913年(大正2年)に初舞台を踏む。
1914年(大正3年)、俳優三浦敏男と一座を結成。翌年、三浦と武田正憲の新日本劇に参加する。上京して同劇顧問佐藤紅緑と同棲する[2]。
1916年(大正5年)、甲府公演『鳩の家』で主役を演じる。本郷座公演で三笠万里子を名乗る。紅緑主幹・万里子座長で巡業するが不入りで解散。新日本座を結成、大阪・中座で旗揚げした[2]。
1919年(大正8年)に長女早苗が誕生。1922年(大正11年)、紅緑と結婚する。東京在住後、1923年(大正12年)に次女愛子を出産する[1]。
1924年(大正13年)、帝国キネマ小阪撮影所に招かれ、中川紫郎監督の時代劇『小豆島』に嵐璃徳の相手役で映画デビュー。紅緑が、東亜キネマの所長に就任する。紅緑作品『母』、佐藤プロ組織の第1作『光明の前に』に出演。映画はこの3作[2]。
同年、佐藤愛子を含む一家は兵庫県鳴尾村字西畑(現西宮市)に転居している。12月には、神戸市の聚楽館で2日間の自主公演を行い『マグダ』に主演。これが最後の舞台となる[1]。
余談となるが、鳴尾村では近所に幼少期の森繁久彌がいた。次女佐藤愛子の幼馴染みであった[3]。場所は、甲子園球場の歓声も聞こえる距離である。
1972年(昭和47年)3月30日、東京都世田谷区で死去。享年78歳[1]。
人物
[編集]その人生は、まさに波乱万丈という言葉がふさわしい。若い頃は女優として舞台やスクリーンに立ち、同時代に活躍していた女優松井須磨子をライバル視する[3]など、情熱を燃やした。
映画出演は3作と多くはない[2]が、大正期の芸能界を彩った人物の一人として、その存在は今もなお輝きを失っていない。
一方で、私生活では佐藤紅緑[注 1]との間に一男二女をもうけ[1]、母親としての顔も持ち合わせていた[3]。
茶の間では、娘愛子とも頻繁に政治談議など行った。太平洋戦争中、内閣総理大臣に近衛文麿が選ばれると、「あんな白魚のような指をしたお公家さんに日本の首相が務まるのかねえ」などと辛口批評を行なうのが常であった[3]。
主な出演作品
[編集]舞台
[編集]映画
[編集]家族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009348523 左記は、国立国会図書館。佐藤愛子著『佐藤家の人びと』小学館刊、2018年が登録されている。本書180ページ以降に「『血脈』関連年表 」が付録。
- ^ a b c d e f g h i j k l m https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E7%AC%A0%E4%B8%87%E9%87%8C%E5%AD%90-1112027#goog_rewarded <三笠万里子 ‐ コトバンク>に三笠万里子に関する記述がある。
- ^ a b c d https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I028643623 左記は、国立国会図書館。佐藤愛子著『血脈』(上中下巻)が登録されている。当該小説は事実に基づいた内容である。「あとがき」にそのことが記されている。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]