三田称平
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 文化9年[1]12月10日(1813年1月12日) |
死没 | 明治26年[1](1893年[1])7月4日 |
改名 |
幼名:房之助[2][1] 号:地山[2][3][1] |
官位 | 贈従五位[4][1] |
主君 | 大関増儀→増昭→増徳→増裕→増勤 |
氏族 | 秋庭氏→三田氏 |
父母 | 父:秋庭清房[2][1] |
三田 称平(みた しょうへい)は、下野国黒羽藩の奉行[3]・重臣。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]文化9年、黒羽藩士・秋庭清房の子として黒羽城武家屋敷で生まれる[2][1]。
少年の頃から黒羽藩の藩校師範であった大沼瓠落軒から漢学や儒学[1]を学び、同じく藩士の小山田稲所から国学を学び、これらを修めた[2][1]。
天保2年(1831年)、20歳で[1]江戸詰勤番となった時には安積艮斎の門人となり朱子学を学び[2][3][1]、天保5年(1834年)に当時の黒羽藩主・大関増儀が大坂加番となった時には大阪に随伴し[5]、大塩平八郎の門下に入り陽明学を学んだ[2][3][1]。
天保11年(1840年)には郡奉行となり、藩政に関与するようになった[2][1]。
「益子の窯業」の奨励
[編集]安政2年(1855年)に下之庄郷奉行(当時の芳賀郡を治める奉行[2])を命じられ、益子村(現・益子町)の益子陣屋に着任する[1][6]。大塚啓三郎が興した窯業に将来性を見出し、藩から資金を調達出来るよう便宜を図り、後の益子焼へと繋がる「益子の窯業」の産業発展に寄与した[2][3][1][7]。
また風流を好み酒も好み、大阪で知識を得た「直火で酒を熱燗にする徳利」を益子の陶工たちに教えて作陶させこれを広めた。そして自らもこれを愛用した。この徳利は「称平徳利」と名付けられた[2][3][1][5]。現在も当時作陶された「称平徳利」が現存しているものがあり[8][9][10]、大塚啓三郎が開いた根古屋窯の大塚家では、その内の2つが神棚の榊立てとして使われていた[7] 。また2003年(平成15年)には益子焼の開窯150周年を記念し、益子焼の開祖である大塚啓三郎から数えて6代目に当たる子孫の根古屋窯・大塚久男が復刻を試み、限定100個で販売された[5]。そして同年4月1日に根古屋窯6代目・久男の手により、大塚啓三郎の記念碑が建立されている益子鹿島神社に復刻した「称平徳利」が奉納された[11][7]。
2年で益子を離れた後、安政4年(1857年)には黒羽藩の藩校である作新館の学頭となった[2]。
幕末動乱
[編集]元治元年(1864年)11月、「那珂湊の戦い」で敗れた武田耕雲斎、藤田小四郎率いる水戸藩の天狗党が敗走し京都へ向かい進軍した時に、軍からはぐれてしまった水戸脱藩士が黒羽藩領に入り、在藩していた藩主・大関増裕自ら軍を率いて衝突戦闘をしながらもこれらに対処した。また武田・藤田率いる水戸天狗党本軍が村名主に趣意書を送った後、黒羽藩領内の村に休泊した。藩主・増裕は幕府の天狗党追討軍総括・田沼意尊の元へ三田を派遣し、以上の出来事を書面にて報告した[12]。
慶応4年(1868年)に勃発した戊辰戦争では、同年4月8日に仙台藩への密使となり派遣され[13]、同年4月11日に仙台藩・白石城で各藩の重臣が会合した「白石会議」に出席した時に[14][15][13][1]「奥羽越列藩同盟に対する黒羽藩としての大義名分」を説いた結果、同盟への黒羽藩の加入を拒否した[2][13][1]。
そして藩に戻り藩主に進言し、黒羽藩の藩政の意見をまとめ、明治新政府に味方することを決議させた[2][1]。
明治維新後
[編集]明治2年(1869年)に権大参事・公議所議員となり国政に参加する[3][1]。
明治5年(1872年)からは自邸を使用して私塾である「地山堂」を設立し、黒羽の文化・教育の発展に寄与した[3][1]。
三田の門下生は藩校・作新館時代と合わせると1,000人に及ぶと言われている[2]。そして後に自由民権運動家として活躍した荒川高俊は作新館で三田の門下に入り漢学を修めていたという[3][16]。
晩年は著作活動に専念し、『那須国造碑考』[17]『日本外史摘解』『明治詩抄』(2巻)などを刊行した[1]。また『地山堂雑記』(49編)などの未刊の文献もあるという[3][1]。
逝去
[編集]また頌徳碑となる「地山三田翁碑」が黒羽神社(黒羽招魂社)の境内にある[3][19]。碑文は仙台の岡鹿門が文章を綴り、書家・日下部鳴鶴が揮毫した[3]。
大正7年(1918年)11月18日に従五位を追贈された[3][4][20][1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 新人物往来社,三百藩家臣人名事典 1988, p. 291.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “「第四編 人物」「十五 三田称平(地山)」|『黒羽町誌』|市町村合併以前の自治体史”. 大田原市/地域史資料デジタルアーカイブ]. 2023年9月23日閲覧。:資料本文ビューア 該当ページ
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『益子の窯と佐久間藤太郎』「陶祖・大塚啓三郎」「称平徳利」塚田泰三郎、P40 - 43 - 国立国会図書館デジタルコレクション、2023年2月17日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
- ^ a b 『官報』1918年11月19日「叙任及辭令」 「大正七年十一月十八日」「贈 従五位 故 三田称平」- 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c 「下野新聞」2003年(平成15年)2月11日付 7面「開祖のとっくり 現代に」「開窯150年記念し限定100個を復刻」「益子町の大塚さん」
- ^ 地図 - Google マップ - 益子陣屋跡
- ^ a b c 「下野新聞」2003年(平成15年)7月20日付 9面「企画」「益子焼物語 開窯 刻まれた百五十年 第2部 1」「2人の先人」「徳利が語る自由な気風」
- ^ 下野新聞」2011年(平成23年)2月10日付 30面「那須塩原の渡辺さん宅」「150年前の「称平徳利」発見」「益子焼開祖・啓三郎が制作」「黒羽芭蕉の館に寄贈」
- ^ 「下野新聞」2012年(平成24年)2月16日付 24面 「陶祖の称平徳利公開」「幕末・明治の益子焼公開」「大田原」
- ^ “知っていますか 黒羽と益子焼の縁 大田原で草創期の作品展示”. 下野新聞 SOON (2021年5月5日). 2023年9月26日閲覧。
- ^ 「下野新聞」2003年(平成15年)4月2日付 8面「「称平徳利」を奉納」「開窯150年記念し復刻」「益子町」
- ^ 『大関肥後守増裕公略記』小林華平 編「附載 水戸藩脱士武田勢ト衝突」P66 - 69 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月23日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
- ^ a b c 『黒羽藩戊辰戦史資料』 小林華平 編「会津ヨリ大軍ヲ発スル報」P22 - 25 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月23日閲覧。
- ^ 『戊辰出羽戦記』「奥羽各藩重臣白石に會す」狩野徳蔵 編 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月23日閲覧。
- ^ 『戊辰戦史 巻5−8』『戊辰戦史 巻八』紫山 川崎三郎 著「白河戦闘」「第一 會津藩ト奥羽列藩トノ關繫」一二頁 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月23日閲覧。
- ^ 『日本民権家言行録 初篇 下』「荒川高俊君之小伝」- 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年9月23日閲覧。
- ^ “『みちのく《入り口》史跡めぐり/『みちのく《入り口》史跡めぐり/大田原市なす風土記の丘湯津上資料館(5)』 ms-13”. 龍人鳥の徒然フォト日記 (2019年4月19日). 2023年9月26日閲覧。
- ^ “三田地山墓|黒羽田町地蔵堂”. 戊辰掃苔録. 2023年9月23日閲覧。
- ^ “地山三田翁碑|黒羽招魂社”. 戊辰掃苔録. 2023年9月23日閲覧。
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.
参考文献
[編集]- 家名人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典 第二巻』株式会社 新人物往来社、1988年2月1日、291頁。ISBN 9784404014900。
- 『三百藩藩主人名事典』 新人物往来社
- 『江戸三百藩藩主総覧』 新人物往来社
外部リンク
[編集]- 「第四編 人物」「十五 三田称平(地山)」|『黒羽町誌』|市町村合併以前の自治体史 - 大田原市/地域史資料デジタルアーカイブ
- 知っていますか 黒羽と益子焼の縁 大田原で草創期の作品展示 - 下野新聞 SOON