三田政吉
三田 政吉(みた まさきち、1910年(明治43年)12月12日 - 2006年(平成18年)1月25日)は、日本の実業家。料亭「濱田家」の二代目。明治座の元代表取締役会長。
兄は元三田観光企業社長・三田庄三郎。息子は料亭濱田家、明治座社長の三田芳裕。孫は明治座常務取締役の三田光政と元フジテレビアナウンサーの三田友梨佳[1]。
経歴
[編集]出生から学生時代まで
[編集]1910年(明治43年)、東京市日本橋区青物町(現中央区日本橋)に生まれる[2]。父・五三郎は板前の職人で、日本橋の福井楼という料亭の料理長だった[2]。政吉が生まれてから2年後の1912年(大正元年)に、父・五三郎は日本橋人形町の玄冶店跡地にて料亭「濱田家」を創業[2]。子供の時はデパートに行くのが楽しみだった[2]。1928年(昭和3年)慶應商工学校(現・慶應義塾中等部)を卒業[2]。
財界人、文化人として
[編集]1947年(昭和22年) 株式会社濱田家代表取締役[2]。東京大空襲で焼失した明治座の復興に関わり社長の新田新作(國粹会生井一家人形町貸元)の右腕として働く。新田の死後、1967年(昭和42年)株式会社明治座代表取締役社長となる[2]。1974年(昭和49年)日本演劇興行協会会長[2]。1977年(昭和52年)東京食品販売国民健康保険組合理事長[2]。
1984年(昭和59年)社団法人日本食品衛生協会理事長[2]。1985年(昭和60年)日本演劇興行協会顧問[2]。 1993年(平成5年)株式会社明治座代表取締役会長[2]。 1999年(平成11年)名誉都民に顕彰される[2]。日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会会長となる[2]。
晩年
[編集]2006年(平成18年)1月25日、心不全のため逝去[3]。95歳[3]。 葬儀は28日、明治座、明治座グループ、濱田家により築地本願寺で営まれ、参列者は5千人に及び、境内は人で埋まった[4]。葬儀委員長をつとめた東京都知事の石原慎太郎は挨拶で、演劇界、料飲業界、政治の世界で果たしてきた足跡をたどるとともに、「日本橋で後援会を作っていただいた」として、その人徳に崇敬の念を明らかにした[4]。
人物像
[編集]仕事をする上での信条について三田によると「一番大事なことは、商人は誠実でないと駄目だということです。それにお客さんに親切でないと続きません。そして社員の生活にまで目を通して、社員を大切にしないといけません。それでなくては良い人は集まりませんし、店に長くはいてくれません。働いている人への思いやりが大切だと父に言われ、私も守って来ました。昔の人は、自分と一緒に働いている人への行き届いた心配り、そういうものがあったのではないでしょうか。それが大切だと思います」[2]という。