三澤寺 (富士宮市)
三澤寺 | |
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所在地 | 静岡県富士宮市大鹿窪332番地 |
位置 | 北緯35度15分02.7秒 東経138度33分48.7秒 / 北緯35.250750度 東経138.563528度 |
山号 | 弘法山 |
宗派 | 日蓮宗 |
寺格 | 緋金襴寺跡 |
本尊 | 三宝尊 |
創建年 |
正安2年(1300年)もしくは 徳治3年(1308年) |
開山 | 大国阿闍梨日朗 |
開基 | 三澤昌弘 |
中興年 | 明暦3年(1657年)4月8日 |
中興 |
実成院日相(10世) 僧那院日豊(長興長栄両山19世) 池田綱清(開基) |
正式名 | 弘法山三澤寺 |
公式サイト | 三澤寺 |
法人番号 | 1080105003344 |
三澤寺(さんたくじ)は、静岡県富士宮市大鹿窪にある日蓮宗の寺院。
概要
[編集]山号は弘法山。旧本山は大本山池上本門寺。旧寺格は緋金襴寺跡。寺院の法縁は池上中道不二庵法類の大久保法縁、住職の法縁は親師法縁。
歴史
[編集]日蓮の直檀である身延三澤の地頭・三澤昌弘[1]が徳治3年(1308年)に剃髪し、三澤院法昌日弘と称して邸館を伽藍に改めた事をその淵源とする。[2] 昌弘は日蓮から『三澤御房御返事』や『三澤抄』といった書状を送られる程の篤信家であり、その内容によれば身延山在山中の日蓮に柑子や昆布を献上するなどして生活を支えたという。時が下り承応3年(1654年)12月に、10世・実成院日相が七面山での一千日水行を成満し祈祷相承三澤流の流祖となった。その高名は瞬く間に広まり、鳥取藩第2代藩主池田綱清が大病を患った際に日相に平癒祈願を依頼したところ忽ちに癒えた事から以後深く帰依し、明暦3年(1657年)4月8日には長興山妙本寺・長栄山本門寺[3]19世・僧那院日豊の助力を得て寺跡を身延三澤から大鹿窪に移転させ、寺領4町四方(48,000坪)を寄進し新たに本堂・庫裡・七面堂を建立したと伝えられている。[4] このような経緯から大鹿窪には三澤寺に関わる石碑が多く点在し[5]、境内には大鹿窪に隣接する由野郷(現在の富士宮市柚野)に土着していた篠原氏の子孫により建立された供養塔がある。[6]
更に時が下り、綱清が江戸府中大久保に鳥取藩抱屋敷を構えた際には、その付近に堂宇を建立。日相を開山に迎え春時山光清院と称し(後に春時山法善寺と改称)中正院日護の作と伝えられる七面大明神像を奉安した。[7] この時から池上本門寺の客末となったと考えられている。このように三澤寺と法善寺の関係は極めて密接であり、24代にわたる法善寺歴代住職の内、実に6人が三澤寺から晋山している。[8] また、清月山覚蔵寺(東京都杉並区下高井戸)の開山から4世までが法善寺と全く同じ(両山一首)である事から同様に密接な関係にあると言える。なお法善寺は、三澤寺の格式と鳥取藩の権威を背景として歴代住職が護持丹精・教線拡張に精進した結果、大久保法縁縁頭寺として池上中道不二庵法類の一翼を担うまでになった。
その後、大正7年(1918年)8月に全山が灰燼に帰す憂き目に遭うが、歴代住持の護持丹精によって寺観を一新。33世・太玄院日滋(望月桓匡)は経栄山題経寺(柴又帝釈天)17世を経て総本山身延山久遠寺88世となった。現在は、永代供養納骨塔「はるかぜの塔」を建立し、また清心会空手道連盟の静岡支部として境内に道場を構えるなど、広く一般社会に対して門戸を開いている。
アクセス
[編集]富士急静岡バスS131柚野線「三沢寺前」停留所下車。(JR身延線西富士宮駅または富士宮駅からS131上柚野行バスで約25分。)
脚注
[編集]- ^ 延宝8年(1680年)に記された『三澤寺縁起』によれば、『吾妻鏡』「正治二年正月二十日条」の「(梶原)景時途中に相逢ふ。かの輩これを怪しみて箭を射懸く。よつて廬原小次郎・工藤八郎・三澤小次郎・飯田五郎これを追ふ」及び「正治二年正月二十三日条」の「三澤小次郎、平三の武者を討ち取る」に見える「三澤小次郎」の嫡孫が昌弘であるという。
- ^ 安永8年(1779年)に記された『本化高祖年譜』によれば、日蓮の高弟である六老僧の一人・大国阿闍梨日朗が、淡路から富士郡大鹿村に移住し延慶2年(1309年)に当地で没した日弘の邸館を伽藍に改め開山したとされている。なお『駿河志料』は寺伝と同じ説を支持している。
- ^ 長興山及び長栄山を併せて「長興長栄両山」もしくは「両山」と称する。
- ^ なお当時池田綱清は9歳の幼少であり自らの意思で寄進したとは考え難く、両山貫首・日豊が助力している点からも生母・茶々姫(紀州藩初代藩主・徳川頼宣の長女で池田光仲室。因幡姫・芳心院とも。池上本門寺の有力な外護檀越で墓所「万両塚」も本門寺内に存在する)が綱清の名で寄進したと考えるのが妥当であろう。
- ^ 『史跡大鹿窪遺跡保存整備基本計画』pp.46-48/富士宮市教育委員会/2019
- ^ 「高天神小笠原信興の考察」『武田氏研究』第21号p.94/黒田基樹/1999・『戦国大名武田氏の外交と戦争』pp.313-316/小笠原春香/岩田書院/2019
- ^ 『江戸名所図会』によれば、この七面大明神像は“万治年間(1658~1661年)に三澤寺から遷座された”もしくは“延宝年間(1673~1681年)に身延山久遠寺から遷座された”と伝えられている。なお、この七面大明神は江戸府内で最初に祀られたものと伝えられており、現在は新宿区の文化財に指定されている。
- ^ 三澤寺の14世・円祈院日幸、15世・持命院日久、16世・円持院日尖、18世・顕理院日実、26世・延寿院日賢が、それぞれ法善寺の2・3・5・7(再住10)・15世となっている。
参考文献
[編集]- 『池上本門寺史管見』/石川存静/大本山池上本門寺/昭和41年(1966年)
- 『宗祖第七百遠忌記念出版 日蓮宗寺院大鑑』/日蓮宗寺院大鑑編集委員会/大本山池上本門寺/1981年
- 『史跡大鹿窪遺跡保存整備基本計画』/富士宮市教育委員会/2019