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三浦毗次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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三浦毗次
時代 江戸時代後期
生誕 安永8年5月23日1779年7月6日[1]
死没 嘉永2年11月17日1849年12月31日[2]
改名 剛之助[1](幼名)、毗次
別名 梅府[2]、蘭卿[2]、心華斎[2](号)
戒名 心華院殿前金部中咲誉召雪梅府大居士
墓所 東京都府中市紅葉丘の誓願寺
官位 従五位下備後守[1]主計頭[1]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
美作勝山藩
氏族 三浦氏
父母 三浦矩次松平乗祐
森忠賛娘千恵[1]
誠次
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三浦 毗次(みうら てるつぐ[1])は、美作国勝山藩4代藩主。美作勝山藩三浦家9代。

生涯

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安永8年(1779年)、第2代藩主・三浦矩次の長男として出生した。母は松平乗佑の娘。誕生の翌年に父が死去し、家督は父の養子となっていた前次が継いだ。文化13年(1816年)4月29日、前次が隠居したためその跡を継いだ[1]

藩政においては藩札を発行したりすることで財政難を解決しようとしたが、文政6年(1823年)に大庭郡西原村と勝山領垂水村境争論が起こったりするなど、藩政は多難を極めた。

文政13年(1830年)7月6日、先代・前次の実子である誠次に家督を譲って隠居した[1]。晩年は俳諧を嗜み、梅府(梅府子[3])と号した。嘉永2年(1849年)11月17日、71歳で死去した[2]

系譜

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勝山藩主三浦家の略系図
三浦明敬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明喬
 
 
 
義理
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明次1
 
 
 
矩次2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
前次3
 
 
 
毗次4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
誠次5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
峻次6義次7弘次9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朗次8顕次10
  • 実線は実子、点線は養子を示す。
  • すべての人物を掲載してはおらず、
    また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
  • 数字は美作勝山藩主の代数を示す。

備考

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  • 書の名手として知られた[3]
  • 真庭市横部(勝山から神庭の滝に至る道沿い)に、文政12年(1829年)に建立された[3]、毗次が詠んだ漢詩の石碑(書も毗次による[3])があり、「毘次侯の詩碑(勝山藩関係資料)」として市指定文化財(昭和46年4月15日に旧勝山町が指定)になっている[3][4]。この漢詩は神庭の滝を詠んだもので「題不老飛泉」と題され「西北辞城一里程 仰看百丈瀑泉清 白虹飛電千秋後 天下應呼不老名」とある[3]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成』下、p.668
  2. ^ a b c d e 三浦毗次”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2014年5月10日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 毘次侯の詩碑(勝山藩関係資料)”. ふるさとデジタル図書館(ふるさとづくり推進ポータルサイト). 総務省. 2019年8月4日閲覧。
  4. ^ 真庭市内の指定文化財”. 真庭市. 2019年8月4日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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