三宅康徳
表示
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 天和3年10月24日(1683年12月12日) |
死没 | 宝暦3年12月1日(1753年12月25日) |
改名 | 勝之助(幼名)、康徳 |
別名 | 襖右衛門(通称)、康利(別名) |
戒名 | 泰巌院殿源恭良性大居士 |
墓所 | 愛知県田原市北番場の霊巌寺 |
官位 | 従五位下・能登守、備後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 三河田原藩主 |
氏族 | 三宅氏 |
父母 | 父:三宅康雄、母:松平近陳娘・梅休院 |
兄弟 | 襖右衛門、康徳、松平近貞、於万 |
妻 |
正室:加藤明英次女・清澄院 側室:野村氏娘・華香院 |
子 | 於彦、康高、松平貞高、徳三郎、於岩、千吉、於甚、徳久、於捨、於重、直蔵、於民 |
三宅 康徳(みやけ やすのり)は、江戸時代中期の大名。三河国田原藩3代藩主。田原藩三宅家6代。官位は従五位下・能登守、備後守。
生涯
[編集]天和3年(1683年)10月24日、2代藩主・三宅康雄の次男として誕生した。長兄の襖右衛門が早世したため、世子に指名された。元禄10年(1697年)12月18日、従五位下・能登守に叙位・任官する。元禄12年(1699年)に元服する。享保11年(1726年)、父の死去により家督を継いだ。
目安箱を設置するなどしたが、江戸城門番などの公役を始め、娘の結婚費用、享保17年(1732年)の暴風雨などによる被害で藩財政が次第に苦しくなった。このため寛保元年(1741年)11月に倹約令を出し、寛保2年(1742年)に上米を行うなどしている。
延享2年(1745年)8月8日、長男の康高に家督を譲って隠居する。宝暦3年(1753年)12月1日、田原で死去した(江戸幕府の死亡届では12月3日である)。享年71。
系譜
[編集]父母
正室
- 清澄院 ー 加藤明英の次女
側室
- 華香院 ー 野村氏
子女