三上雄石
三上雄石 | |
---|---|
生誕 |
1878年(明治11年)11月8日 埼玉県志木町 |
死没 | 1918年(大正7年)10月27日 (享年41) |
国籍 | 日本 |
三上 雄石(みかみ ゆうせき)は、聯珠(連珠)第二世永世名人[1]。本名は、三上 義太郎(よしたろう)。
自由民権運動 に活躍すると共に、聖書を日本で最初に和訳するなど、出版事業にも成果をあげた 三上七十郎(しちじゅうろう)は叔父(父の実弟)にあたる。
概要
[編集]明治11年(1878年)11月8日、埼玉県志木町に生まれる。
上京し、芝区にて呉服商や麦商を営む中、同町内の将棋と聯珠の大家である井上義雄と知り合い、師事して聯珠の研究に身を委ね、各所の競技会で好成績を収めて「鬼三上」の綽名を取る。
雄石という号は井上義雄が自らの「雄」一文字を入れて贈ったとされる[2] [3]。
髙橋清致、高山互楽らが東京聯珠社を起し、同社が聯珠段位を与えることとなったときに、四段を授かる。
高橋清致の聯珠界引退(明治42年12月)後の明治43年1月、東京聯珠社の社長が高山互楽となると主席理事に就任し、本業の麦商を廃業して、斯道に尽力する。
高山互楽の後援によって、磐井楽在、小日向梅軒らと共に斯界唯一の雑誌『聯珠新報』を発行し、数万人の読者を得る[4][5]。
明治43年6月の段位規定づくりに励むと共に、関西遠征(明治44年1月)による、その後の段位規定の改正(明治44年9月)、競技規定など、連珠界の基盤づくり・全国統一に貢献した[4]。
明治45年に専門連珠家となってより、精力的に著作活動を進めて多くの著作物を残す(著書の項を参照)。またその後、聯珠図書出版会を設立し、連珠の普及にさらに努めると共に、その技術を後世に伝えることに貢献した。
大正7年(1918年)10月27日、東京聯珠社の楼上で、聯珠の手合の審判を務めている最中に突如、手合を写し取る珠印を握ったまま倒れ、その日の内に自宅にて息を引き取った[5]。
当時は父・母・妻・長男(13歳)・次男(4歳)・長女(17歳)・次女(9歳)を残したのであるが[6]、平成の時代になって、そのいずれもがもうこの世にはいない。
現在は故郷の埼玉県志木市にある菩提寺に、先祖や親族とともに眠っている。
経歴
[編集]明治11年(1878年)11月8日、廻漕問屋、呉服商を営み、町会議員も務めた父、八十八(やそはち)と、母、くにの長男として埼玉県北足立郡志木町に生まれる。曽祖父は、廻漕問屋を営んでいた七郎右衛門。祖先には、引又初代名主の又兵衛がいる[7]。
明治36年(1903年)10月、上京して芝新堀町にて呉服商(父の稼業)、その後、芝中門前町にて麦商を営む。[8]。
明治39年(1906年)、この年あたりから本格的に連珠に取り組みはじめ、高山互楽とも交流があった。
「不肖菲才を顧みず斯界に身を投じて茲(ここ)に七年未だ充分なる結果を・・・大正二年(1913年)九月」 [9]
「明治39年頃私が斜引の打ち方を研究して大天狗になり・・・高山先生に手酷くやられた・・」 [10]
明治39年(1906年)、師事していた井上義雄と共に芝会に属して、東京聯珠社の本社と対抗競技をする。
「芝に井上義雄、三上雄石・・・浅草に小林敬二、朝田又甫・・・本所に川村徳行等の諸氏、本社と対抗競技をなし・・・」 [11]
明治41年(1908年)、東京聯珠社の第一回段位授与式が行われ、四段を授かる [11] [5]。
明治42年(1909年)11月、五段に昇段。(『聯珠新報』第一号)
明治43年(1910年)1月、東京聯珠社の理事に就く[11]。
明治43年(1910年)1月、小日向梅軒、磐井楽在と共に、東京聯珠社の機関雑誌として『聯珠新報』を創刊する [4]。
明治43年(1910年)1月、『聯珠新報』第一号に「斜引必勝之定石」を掲載。以降、「斜引必勝法」として同誌に連載する。
明治44年(1911年)1月23日、大阪浪花倶楽部で、白井喜友の審判の下、山本利八派の巨星と対戦し、これを連破する。この遠征の結果、山本派七段を聯珠社の四段格とする等、全国統一への大きな効果を収めた(戦歴の項を参照)[12]。
明治44年(1911年)2月、「関西遊記」を掲載(『聯珠新報』第十四号)。
明治44年(1911年)6月、六段に昇段(『聯珠新報』第十九号)。
明治44年(1911年)11月、「関西行手帳日記」を掲載。(『聯珠新報』第二十四号)
明治45年(1912年)、専門連珠家となる [8]。
明治45年(1912年)3月、『聯珠絹篩』(浅井九石と共著)を非売品として会員に配布(『聯珠新報』第二十八号、p21)。後に出版。
大正2年(1913年)6月、『聯珠の栞』を校閲並びに序(浅野珠堂 著、大野万歳館)/ → 国立国会図書館デジタルコレクション
大正2年(1913年)9月、『聯珠雑録』を上梓。
大正3年(1914年)2月、『聯珠虎之巻 第1編』を上梓。
大正3年(1914年)4月1日、聯珠図書出版会を設立し、その責任代表者となる [13]。
大正3年(1914年)4月、『七桂組立法 第1編 峡月之巻』を上梓。
大正3年(1914年)11月、『聯珠案内』を上梓(大正5年6月に再版)。
大正4年(1915年)、『先手必勝聯珠五二聯』を上梓。
大正5年(1916年)、『聯珠斜引先手必勝法』を上梓。
大正5年(1916年)4月、『七桂組立法 第5編 山月之部』を上梓(大正10年2月に再版)。
大正5年(1916年)6月、『七桂組立法 第6編 新月之部』を上梓(大正8年3月に再版)。
大正5年(1916年)8月、『七桂組立法 第7編 残月之部』を上梓(大正10年2月に再版)。
大正5年(1916年)12月、『先手必勝斜引外伝 釘折の巻』を上梓。
大正6年(1917年)、『聯珠絹篩』(浅井九石と共著)を上梓。
大正7年(1918年)7月1日、八段を授かる [14]。
大正7年(1918年)10月27日
- 午後四時頃、聯珠新報社本社にて、対局の審判をしているときに倒れて昏睡状態になる。
- 午後八時頃、赤坂区青山高樹町十二番地の自宅にて逝去。死因は脳溢血。
- 夫人への「血管が破裂したようだ」が最後の言葉となった。
大正7年(1918年)10月29日、通夜。柩の前で夜を明して連珠を打つ。
「浅井、小野澤、佐藤、小日向、高木、田島、亀田、荒田、朝田、内田の諸友は柩前に夜を明し連珠を打つ・・・」[8]
大正7年(1918年)10月30日、午前9時に高樹町の自宅を出棺し、麻布笄町大安寺にて葬儀が行われる[5] 。
大正7年(1918年)11月17日、正午より「三上雄石追善聯珠会」が大安寺にて催される[15]。
大正7年(1918年)12月1日、三上雄石への追悼記事が種々発表される[16]。
大正8年(1919年)11月9日、東京聯珠社主催の一周忌追善聯珠会にて名人位を追贈される。
戦歴
[編集]対局日 | 先手 | 後手 | 備考 |
---|---|---|---|
明治44年(1911年)1月23日 | (勝) 五段 三上雄石 | (負) 山本派六段 武田權次郎 | 山本利八派との対戦 [12] |
明治44年(1911年)1月23日 | (負) 山本派六段 武田權次郎 | (勝) 五段 三上雄石 | 山本利八派との対戦 [12] |
明治44年(1911年)1月23日 | (勝) 五段 三上雄石 | (負) 山本派五段 小林豪溥 | 山本利八派との対戦 [12] |
明治44年(1911年)1月23日 | (負) 山本派五段 小林豪溥 | (勝) 五段 三上雄石 | 山本利八派との対戦 [12] |
明治44年(1911年)1月23日 | (勝) 五段 三上雄石 | (負) 山本派五段 加藤富吉 | 山本利八派との対戦 [12] |
明治44年(1911年)1月23日 | (負) 山本派五段 加藤富吉 | (勝) 五段 三上雄石 | 山本利八派との対戦 [12] |
明治44年(1911年)1月23日 | (勝) 山本派四段 高橋 秀 | (負) 五段 三上雄石 | 山本利八派との対戦 [12] |
明治44年(1911年)1月23日 | (勝) 山本派四段 竹下元吉 | (負) 五段 三上雄石 | 山本利八派との対戦 [12] |
著書
[編集]- 『聯珠雑録』, 聯珠新報社, 大正2年(1913年) [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『聯珠虎之巻 第1編』, 聯珠新報社, 大正3年(1914年) [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『七桂組立法 第1編 峡月之巻』, 聯珠図書出版会, 大正3年(1914年) [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『聯珠案内』, 聯珠新報社, 大正3年(1914年) [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『先手必勝聯珠五二聯』, 大野万歳館, 大正4年(1915年) [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『聯珠斜引先手必勝法』, 大野万歳館, 大正5年(1916年) [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『七桂組立法 第5編 山月之部』, 聯珠新報社, 大正5年(1916年) [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『七桂組立法 第6編 新月之部』, 聯珠新報社, 大正5年(1916年) [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『七桂組立法 第7編 残月之部』, 聯珠図書出版会, 大正5年(1916年) [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『先手必勝斜引外伝 : 釘折の巻』, 聯珠図書出版会, 大正5年(1916年) [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『聯珠絹篩』(浅井九石と共著), 聯珠新報社, 大正6年(1917年) [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『篏手百番 竹之卷』, 出版社不明, 出版年月不明 [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『篏手百番 梅之卷』, 出版社不明, 出版年月不明 [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『篏手百番 鶴之卷』, 出版社不明, 出版年月不明 [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『七桂大観』第1-7巻, 出版社不明, 出版年月不明 [注釈 1] / → 国立国会図書館サーチ
- 『聯珠随録』, 聯珠新報社, 出版年月不明 (上記の『聯珠案内』初版のp172にその概要が紹介されている。)
出典
[編集]- ^ 坂田吾朗『連珠の勝ち方入門』日本文芸社〈ai・books〉、1984年8月、14-15頁。ISBN 453700178X。
- ^ 「当代の珠客・三上雄石先生」『聯珠新報』第32号、聯珠新報社、1912年7月、14頁。
- ^ 東公平『近代将棋のあけぼの』河出書房新社、1998年2月10日、67-68頁。ISBN 4-309-26335-6。
- ^ a b c 三上義太郎(雄石), 『聯珠案内』, 聯珠新報社, 大正3年, 10頁
- ^ a b c d 三上雄石の逝去を伝える記事より
- ^ 『聯珠新報』第109号, 聯珠新報社, 大正7年12月, 17頁
- ^ 神山健吉「志木の黎明期のキリスト教について」『郷土志木』第18号、志木市郷土史研究会、1989年、16-20頁。
- ^ a b c 『聯珠新報』第109号, 聯珠新報社, 大正7年12月, 2頁
- ^ 三上雄石, 『聯珠雑録』, 聯珠新報社, 大正2年, 65頁
- ^ 『聯珠新報』第108号, 聯珠新報社, 大正7年11月, 21頁
- ^ a b c 三上義太郎(雄石), 『聯珠案内』, 聯珠新報社, 大正3年, 9頁
- ^ a b c d e f g h i 平岩米吉, 『聯珠随筆』, 聯珠白日会, 昭和5年, 16-18頁
- ^ 『七桂組立法 第1編 峡月之巻』, 聯珠図書出版会, 大正3年, 26頁
- ^ 『聯珠新報』第105号, 聯珠新報社, 大正7年7月, 17頁
- ^ 『聯珠新報』第109号, 聯珠新報社, 大正7年12月, 2-17頁
- ^ 『聯珠新報』第109号, 聯珠新報社, 大正7年12月, 3-9頁他