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万俟普

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

万俟 普(ぼくき[1] ふ、生没年不詳)は、中国北魏末から東魏にかけての軍人は普撥。本貫太平郡。祖先は匈奴の別種とされる[2][3]

正光5年(524年)、破六韓抜陵が乱を起こすと、万俟普は太尉に任じられた。のちに部下を率いて北魏に降り、後将軍となり、第二領民酋長となった。普泰元年(531年)、高歓が起兵すると、万俟普は高歓とよしみを通じた[2][3]孝武帝の初年、清水郡公に封じられた[3]。使持節・鎮北将軍・大都督・秦州刺史となった。永熙2年(533年)、驃騎大将軍・儀同三司の位を受けた[4]。永熙3年(534年)、侯莫陳悦宇文泰が自分を陥れようとしていると恐れて、偽詔を万俟普に与えて、ともに宇文泰のもとに援軍に向かおうとした。万俟普はこれを疑って、詔を封じて宇文泰に渡した。万俟普は部将の叱干保洛を宇文泰のもとで従軍させた[5][6]斛斯椿が孝武帝に迫って長安に西遷すると、万俟普は司空・秦州刺史に任じられ、覆靺城に駐屯した[2][3]。のちに西魏の建忠王(建中王)に封じられた。天平3年(536年)2月、東魏の高歓が阿至羅を秦州に派遣して万俟普に迫らせ、自身も大軍を率いてこれに続いた[7][8]。5月、万俟普は部下を率いて東魏に帰順し[9][10][11]、河西郡公に封じられた[2][3]。天平4年(537年)11月、太尉となった[12][13]。のちに朔州刺史をつとめて死去した[2]太師大司馬・録尚書事の位を追贈された[3]

子に万俟洛があった[2][3]

脚注

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  1. ^ 万俟」を「ボクキ」と読むのは、この複姓(漢姓を参照)においてのみ見られるものである。
  2. ^ a b c d e f 北斉書 1972, p. 375.
  3. ^ a b c d e f g 北史 1974, p. 1900.
  4. ^ 魏書 1974, p. 288.
  5. ^ 周書 1971, p. 8.
  6. ^ 北史 1974, p. 315.
  7. ^ 氣賀澤 2021, p. 39.
  8. ^ 北斉書 1972, p. 19.
  9. ^ 周書 1971, p. 22.
  10. ^ 北史 1974, p. 176.
  11. ^ 北史 1974, p. 320.
  12. ^ 魏書 1974, p. 302.
  13. ^ 北史 1974, p. 187.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『周書』中華書局、1971年。ISBN 7-101-00315-X 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4