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一色義清 (安土桃山時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一色 義清
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正10年(1582年)9月
改名 吉原越前守義清→一色五郎義清[1]
官位 越前
氏族 吉原氏一色氏(丹後一色家)
父母 父:一色義幸
兄弟 義道義清
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一色 義清(いっしき よしきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将丹後一色家最後の当主とされるが、異説もある(後述)。

生涯

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一色義幸の子で、一色義道の弟[2]丹後国丹波郡(中郡)の吉原城を領し[2][3]、当初は吉原姓を名乗った[1][3]

天正10年(1582年)に、義道の子で一色氏当主の義定(義俊)が細川藤孝に謀殺されると、義清は弓木城に入って、一色氏の家督を継いだ[2][3]。義清は細川軍と戦い、天正10年(1582年)9月、細川軍の本陣に斬り込みをかけて、下宮津の海辺で討死したという[2][3]

義清の死により、室町幕府における四職の一角である丹後守護家一色氏は滅亡したとされる[2]

丹後守護家は滅亡したが、別系に古河公方に仕えた幸手城幸手一色家がある[要出典]。この系統は幕臣水戸藩士として存続した[要出典]

なお、義清の父とされる義幸や兄・義道は架空の人物といわれる[4]。一色氏最後の当主はこの義清ではなく、永正年間(15041521年)の当主である一色義清の子と推測される左京大夫(義員か)であるともいう[5]

脚注

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  1. ^ a b 永濱宇平; 橋本信治郎; 小室萬吉 編『丹後史料叢書 第一輯』丹後史料叢書刊行会、1927年、46、179–180頁。全国書誌番号:47007096https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175321/50 
  2. ^ a b c d e 橋詰茂 著「一色氏」、山本大; 小和田哲男 編『戦国大名系譜人名事典 西国編』新人物往来社、1986年、259–266頁。ISBN 4-404-01316-7 
  3. ^ a b c d 京都府与謝郡役所 編『与謝郡誌 下京都府与謝郡役所、1923年、1081、1093–1094頁。全国書誌番号:43043080https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978723/260 
  4. ^ 梅本政幸『丹波守護 一色氏代々控 修正追記版』一色正人、2024年(原著2011年)、98頁。ASIN B0DJBZ4QGK 
  5. ^ 清水敏之「戦国期丹後一色氏の基礎的研究」『戦国史研究』第82号、1–16頁、2021年。CRID 1520290885348651392 16頁「戦国期一色氏関係略系図」など。