ヴァーツラフ・クラウス
ヴァーツラフ・クラウス Vaclav Klaus | |
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2015年の写真 | |
生年月日 | 1941年6月19日(83歳) |
出生地 |
ドイツ国 ベーメン・メーレン保護領、プラハ |
出身校 | プラハ経済大学 |
所属政党 | 市民民主党 |
サイン | |
第1代首相 | |
在任期間 | 1993年1月1日 - 1997年12月17日 |
大統領 | ヴァーツラフ・ハヴェル |
第2代大統領 | |
在任期間 | 2003年3月7日 - 2013年3月7日 |
第3代代議院議長 | |
在任期間 | 1998年7月17日 - 2002年6月20日 |
市民民主党党首 | |
在任期間 | 1991年 - 2002年 |
ヴァーツラフ・クラウス(Václav Klaus、1941年6月19日 - )は、チェコ共和国第2代大統領(2003年 - 2013年)、政治家、経済学者。
経歴
[編集]プラハ生まれ。1963年に対外貿易専攻でプラハ経済大学を卒業した後、イタリア(1966年)およびアメリカ合衆国(1969年)留学を経て、チェコスロヴァキア科学アカデミー経済研究所研究員となる。1970年、政治的理由のためチェコ国立銀行に左遷された。1988年、科学アカデミー予測研究所指導科学職員に転身。
1989年の共産党体制崩壊(ビロード革命)後、市民フォーラムを結成し、連邦政府蔵相に就任。また1991年には市民民主党を結成し、長年にわたり党首を務める。1991年12月から1992年7月まで副首相。マーガレット・サッチャーを尊敬し、その経済政策を真似て市場経済への移行を進めるが、スロヴァキアの反発を招き、連邦解体を決断。
1993年以降も首相の座に留まり、体制転換に指導力を発揮したが、1997年に汚職問題が発覚して内閣総辞職に追い込まれる。1998年の総選挙では、社会民主党に第一党の地位を奪われるが、少数与党であったため、社民党との閣外協力と引き換えに下院議長のポストに就任。2002年の総選挙でも党勢を挽回できず、その責任を取る形で党首を辞任。しかし、その後も名誉党首として影響力を保持した。
2003年2月28日、ヴァーツラフ・ハヴェルの退任に伴い、議会での選出を経て第2代大統領に就任。
2007年2月と2008年9月に来日している。2007年に来日した際に、立命館アジア太平洋大学より名誉博士号が授与されている[1]。
思想
[編集]欧州懐疑主義で知られており、2012年に欧州連合がノーベル平和賞を受賞したことを「冗談かと思った」「悲劇的な過ちである」と酷評している。
パーソナル
[編集]家族には妻と2児がいる。スキー、テニス、バレーボールが趣味。ロシア語を話す。
著書
[編集]- 「「環境主義」は本当に正しいか? チェコ大統領が温暖化論争に警告する」、日経BP社、2010年2月 ISBN 978-4822247980
出典
[編集]- ^ “チェコ大統領にAPU名誉博士号を贈呈”. 立命館 (2007年2月). 2021年6月13日閲覧。
公職 | ||
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先代 ヴァーツラフ・ハヴェル |
チェコ共和国大統領 第2代:2003年 - 2013年 |
次代 ミロシュ・ゼマン |
先代 (創設) |
チェコ共和国首相 初代:1993年 - 1997年 |
次代 ヨゼフ・トショフスキー |
先代 ペトル・ピトハルト |
チェコ社会主義共和国首相 第7代:1992年 |
次代 (独立) |
議会 | ||
先代 ミロシュ・ゼマン |
チェコ共和国議会代議院議長 第3代:1998年 - 2002年 |
次代 ルボミール・ザオラーレク |
党職 | ||
先代 (創設) |
市民民主党党首 初代:1991年 - 2002年 |
次代 ミレク・トポラーネク |