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ヴァレンティナ・グリゾドゥボワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴァレンティナ・グリゾドゥボワ
生誕1909年4月27日ユリウス暦 4月14日)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ハリコフ県英語版
ハリコフ
死没1993年4月28日(1993-04-28)(84歳没)
ロシア
モスクワ
所属組織ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
部門 ソ連空軍
最終階級大佐
指揮第101長距離航空連隊ロシア語版
受賞
1等祖国戦争勲章 1等祖国戦争勲章 ウラジーミル・イリイチ・レーニン生誕100周年記念記章 1等祖国戦争パルチザン記章 モスクワ防衛記章 1941年-1945年大祖国戦争における対ドイツ戦勝記章 1941年–1945年大祖国戦争勝利20年記念記章 1941年–1945年大祖国戦争勝利30年記念記章 1941年–1945年大祖国戦争勝利40年記念記章 退役軍人労働記章 ソ連軍50年記念記章 ソ連軍60年記念記章 ソ連軍70年記念記章 モスクワ800周年記念記章 レニングラード250周年記念記章

ヴァレンティナ・ステパノヴナ・グリゾドゥボワロシア語: Валентина Степановна Гризодубоваウクライナ語: Валентина Степанівна Гризодубова1909年4月27日ユリウス暦 4月14日) - 1993年4月28日)は、ソビエト連邦の軍人。ソ連邦英雄社会主義労働英雄。最終階級は空軍大佐。

女性操縦士初となるソ連邦英雄受章者の一人であり、女性としては唯一のソ連邦英雄・社会主義労働英雄受章者である。

経歴

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ヴァレンティナ・テレシコワ(中央)とともに写るグリゾドゥボワ(右、1971年)。

前半生

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ヴァレンティナ・グリゾドゥボワは、1909年4月27日ユリウス暦 4月14日)ロシア帝国ハリコフ(現ウクライナ・ハルキウ)で生まれた。航空機設計技師である父、ステパン・ヴァシリエヴィチ・グリゾドゥボフロシア語版の影響もあり、14歳でグライダー単独飛行を行っている。ピアノを嗜み、外国語も堪能だった彼女は、ハリコフ工科大学ロシア語版および音楽学校を卒業した。1929年には、準軍事組織であるオソアヴィアヒム英語版(ソ連国防・航空化学建設協賛会)のペンザ飛行クラブを卒業し、ハリコフ航空学校でも訓練を受けていた[1]

1933年、グリゾドゥボワはトゥーラ上級飛行学校を卒業。その後、彼女はこの学校の航空指導員として86人の男性操縦士を訓練したが、その多くは後にソ連邦英雄となっている。1934年から1938年まで、後にマクシム・ゴーリキーと名付けられる宣伝飛行隊で勤務した[2]。彼女は様々な航空機を操縦し、7つもの世界記録を打ち立てた[3]。その中には、1937年10月15日に記録した女性操縦士による複座水上機の最高到達高度記録(3,267メートル、国際航空連盟による記録番号:121.16)や3本の速度記録に加え、マリーナ・ラスコーヴァとの共同によるモスクワアクチュビンスク間の長距離飛行記録が含まれる[4]

1938年9月24日から25日にかけて行われた爆撃機ANT-37「ロジーナ」英語版による長距離飛行では、グリゾドゥボワが機長、ラスコーヴァが航法士、ポリーナ・オシペンコが副操縦士を務めた。「ロジーナ」では5,910キロメートルを飛行したが、これは女性操縦士による直線飛行距離としては世界最長記録である(国際航空連盟による記録番号:10444)。この功績から、彼女たちは1938年11月2日に女性初のソ連邦英雄となり、報奨金25,000ルーブルが贈られた[4]

大祖国戦争

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1941年6月に勃発した大祖国戦争に、グリゾドゥボワが参戦したのは1942年3月のことである。彼女は、1942年5月に結成された第101長距離航空連隊ロシア語版の指揮官に任命されたが、この連隊は操縦士や航法士、航空整備士、地上支援員など300人の要員から構成されていた。彼女の部隊には、民間航空隊から徴用された輸送機リスノフ Li-2ダグラス DC-3ライセンス生産機)が配備されていた[5]

グリゾドゥボワのLi-2には、操縦士、副操縦士、航法士、飛行技師、無線通信士、機上射手の6人からなる飛行士が搭乗していた。この部隊は先ず敵軍への爆撃任務やパルチザンの支援にあたり、1942年6月には包囲されたレニングラードへ物資の供給を行った。その後、第101長距離航空連隊には、ブリャンスク戦線および南西戦線を撃破し、ヴォロネジへ進軍していたドイツ国防軍部隊に対する爆撃任務が与えられた。グリゾドゥボワはほぼ毎晩自身の連隊を率いて出撃し、クルスクオリョールリゴフ英語版に展開していた強力な対空砲火とドイツ空軍夜間戦闘機部隊を壊滅させた[6]

1942年9月、第101長距離航空連隊にはパルチザン運動の中央司令部に対する自由処分権が与えられた。連隊はパルチザンの活動域に1,850回以上任務飛行し、約1,500トンの武器、弾薬と数百トンの無線機器、印刷機械、フィルムカメラ、読み物などの物資をパルチザン指導者に提供した。また、2,500人におよぶ負傷したパルチザンや浮浪孤児の救助も行ったが[7]、その都度劣悪な仮設滑走路や敵の戦闘機部隊がLi-2の活動を大きく阻害した。1943年3月までに、グリゾドゥボワの主導により、パルチザンによってドニエプル川右岸に改良された滑走路が建設された。この滑走路には、日中最大で12機の航空機を駐機できた[8]1944年5月27日、レニングラード解放への貢献を称えられ、彼女の連隊に名誉称号「クラスノセルスキー」が与えられた。グリゾドゥボワがモスクワに召還される1944年6月までに、彼女は約200回の出撃を記録している。2か月後の8月30日、第101長距離航空連隊に赤旗勲章が贈られ、後にソビエト親衛隊称号が与えられた[8]

戦後

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1946年、グリゾドゥボワは大佐の階級で予備役にまわされた。1940年代後半、ソ連におけるナチス・ドイツ戦争犯罪を糾明し、国家の損害に対する賠償を求めるドイツファシスト侵略者とその共犯者による犯罪に関する調査検証特別国家委員会ロシア語版[9]において、彼女は女性唯一の委員を務めている[10]。退役後は民間航空部門で試験飛行や航空機器開発などに携わり、その他、スヴェトラーナ・サヴィツカヤが試験操縦士となる際の支援も行うなど、宇宙飛行士とも交流があった[11]1993年4月28日に死去。遺体はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。

叙勲

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英雄称号

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勲章

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記章

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顕彰

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ロシア連邦

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ウクライナ

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ハルキウにあるグリゾドゥボワの記念碑。

その他の地域

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郵便

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脚注

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  1. ^ Simonov & Chudinova 2017, p. 41.
  2. ^ Milanetti 2011, p. 117–120.
  3. ^ Cottam 1998, p. 4.
  4. ^ a b Milanetti 2011, p. 117.
  5. ^ Cottam 1998, p. 5.
  6. ^ Cottam 1998, p. 6.
  7. ^ Cottam 1998, p. 7.
  8. ^ a b Cottam 1998, p. 8.
  9. ^ Lawrence Raful (2006). The Nuremberg Trials: International Criminal Law Since 1945. Walter de Gruyter. p. 47. ISBN 3110944847. https://books.google.ca/books?id=5h_8dxXEIPsC&q=Ascertaining#v=snippet&q=Ascertaining&f=false 
  10. ^ Kolasa, Ingo. 1996. “Where Have all the Volumes Gone? A Contribution to the Discussion of `captured government property’ and ‘trophy commissions.” College & Research Libraries. 11. Volume 57, Issue 6, Page 503. Die Deutsche Bibliothek in Frankfurt, Germany: アーカイブ 2014年12月21日 - ウェイバックマシン
  11. ^ Pennington, Reina; Higham, Robin (2003). Amazons to fighter pilots : a biographical dictionary of military women / Vol. 1, A-Q.. Westport, CT: Greenwood Press. p. 187. OCLC 773504359 
  12. ^ a b c d e f g Simonov & Chudinova 2017, p. 44.
  13. ^ В Хорошёвском районе Москвы, названа в 2004 году (бывший Проектируемый проезд № 5485).
  14. ^ Музей Героя Советского Союза, Героя Социалистического Труда В.С. Гризодубовой, ГБОУ Школа № 185, Москва”. sch185s.mskobr.ru. 2019年11月28日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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