ヴァレンタイン・キャメロン・プリンセプ
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ヴァレンタイン・キャメロン・プリンセプ Valentine Cameron Prinsep | |
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1889年頃 | |
生誕 |
1838年2月14日 インド,コルカタ |
死没 |
1904年11月4日 イギリス,ロンドン |
運動・動向 | ラファエル前派 |
ヴァレンタイン・キャメロン・プリンセプ(Valentine Cameron Prinsep、Val Prinsepとも、1838年2月14日 - 1904年11月4日)はイギリスのラファエル前派に属する画家である。
略歴
[編集]インドのコルカタに、インド植民地政府の高官(インド高等文官)のヘンリー・トービー・プリンセプの息子に生まれた[1]。芸術愛好家の家庭で、父親はラファエル前派の画家、ジョージ・フレデリック・ワッツの友人で、母親は有名な芸術写真家となったジュリア・マーガレット・キャメロンの姉妹にあたる。一家は1843年にイギリスに戻り、1851年からロンドンのLittle Holland Houseで暮らした[1]。
父親との関係から、プリンセプは最初にワッツから美術を学んだ。1856年からトルコのハリカルナッソスの考古学調査に参加した後、パリのシャルル・グレールのアトリエで学んだ。同じ時期に、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(1834-1903)やエドワード・ポインター(1836-1919)、ジョージ・デュ・モーリアといった後にイギリスの美術界の重要な画家たちがグレールに学んでいた。パリでの修行を終えるとイタリアを訪れ、エドワード・バーン=ジョーンズとシエナを訪れた。
1862年から、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会に出展をはじめ、好評を得た。ラファエル前派のスタイルで女性像を描いた。1879年にロイヤル・アカデミーの準会員となり、1894年に正会員となった。
1884年に裕福な家の娘と結婚し、裕福な会社の役員、土地所有者となった[1]。
作品
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パーラーの女王 (1860)
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読書する少女
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冬の始まり
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金色の扉の前で
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My Lady Betty
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フクロウ
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マリアナ -「尺には尺を」の人物
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横たわる女とオウム
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甘い休息
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La Festa di Lido
脚注
[編集]- ^ a b c Dakers, Caroline. "Prinsep, Valentine Cameron". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/35615。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
参考文献
[編集]- Gibson, Frank W. (1912). "Prinsep, Valentine Cameron". In Lee, Sidney. Dictionary of National Biography, 1912 supplement. 3. London: Smith, Elder & Co.
- Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Prinsep, Valentine Cameron". Encyclopædia Britannica. 22 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 350.