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ヴァシリー・シャランゴヴィチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴァシリー・フォミチ・シャランゴヴィチ
Василий Фомич Шарангович
Васіль Фаміч Шаранговіч
生年月日 (1897-03-04) 1897年3月4日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国ヴィリナ県ヴィリナ郡ウクライナ語版コチャヌィ
没年月日 (1938-03-15) 1938年3月15日(41歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワコムナルカ射撃場[1]
前職 鉄道技師
所属政党 ボリシェヴィキ
称号 赤旗勲章

白ロシア共産党ロシア語版)中央委員会
第一書記
在任期間 1937年3月18日 - 7月29日

白ロシア共産党(ボ)中央委員会
第二書記
在任期間 1930年10月15日 - 1934年8月3日

在任期間 1921年 - 1922年

全連邦共産党(ボ)イルクーツク管区委員会
責任書記
在任期間 1930年[2] - 1930年8月
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ヴァシリー・フォミチ(ファミチ)・シャランゴヴィチロシア語: Василий Фомич Шаранговичベラルーシ語: Васіль Фаміч Шаранговіч1897年3月4日 - 1938年3月15日)は、ベラルーシ人のボリシェヴィキ。

生涯

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1897年3月4日に、ロシア帝国ヴィリナ県コチャヌィの農家に生まれた[3]ベラルーシ人[1]1910年からモロデチュノタラシケヴィツァ版で鉄道技師として働き、1917年12月からボリシェヴィキの党員となった[3]1918年から翌1919年12月まで赤軍に所属し[4]、その後は党中央委員会の指令によってミンスク県で地下活動に従事していた[3]ポーランドの防諜機関によって[3]1920年5月に逮捕され死刑判決を受けたが、重労働20年に減刑され、さらに翌1921年11月には捕虜交換によって釈放された[4]

同年から翌1922年まで白ロシア社会主義ソビエト共和国法務副人民委員、1922年から1923年まで同国検察官、1923年から1926年まで白ロシア共和国労組会議組織部部長および責任書記、1926年から1930年まではロシア共和国シベリア地方ロシア語版労組同盟議長を務めた[4]1925年12月から1927年1月までは白ロシア共産党ロシア語版中央委員、1930年8月までは連邦共産党イルクーツク管区 (ru) 委責任書記でもあった[4]。同年10月15日から1934年8月3日までは白ロシア共産党中央委第二書記および中央委局員でもあった[4]。この頃にシャランゴヴィチはポーランド・ソビエト戦争中のパルチザン活動を賞して赤旗勲章を授与されているが、これは国民からの人気が低かった当時の中央委第一書記ニコライ・ギカロが、国民から支持のあったシャランゴヴィチに取り入るために与えた、事実に基づかないものである[5]。その後、1934年から1936年まではカザフ自治共和国で、同年から翌1937年3月まではウクライナ共和国ハリコフ州で、連邦共産党中央委附属の党統制委メンバーとして活動した[4]。同年には白ロシア共産党ミンスク市委第一書記でもあった[6]

1937年3月18日から7月29日まで白ロシア共産党中央委第一書記および再度の中央委局員を務め[4]、この4か月の任期のうちに白ロシア国内において3千人の処刑と9千人の追放を断行している[7]。同年6月の白ロシア共産党第16回大会の席上でシャランゴヴィチは、「我々は日本ドイツ、ポーランドのスパイ・工作員の残党、トロツキーブハーリン一味や民族主義者の残党を根絶やしにしなければならない。どこに隠れていようが、奴らを粉になるまで叩き潰し、挽き潰さなければならない」との言葉を残している[3]。しかし、直後の7月17日に右翼トロツキスト陰謀事件に連座して逮捕され[3]、裁判の結果、自身が1921年からポーランドのスパイとして反ソ活動に加担してきたことを「認めた」[8]。そして翌1938年3月13日に連邦最高裁軍事参議会ロシア語版によって死刑を宣告され、同月15日に銃殺された[1]

その後、シャランゴヴィチは1957年12月に名誉回復ロシア語版[1]、翌1958年に党籍回復がなされた[3]

脚注

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  1. ^ a b c d Шарангович Василий Фомич”. Сахаровский центр英語版. 2016年9月5日閲覧。
  2. ^ Иркутский округ”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2016年9月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g Залесский К. А. (2002). Империя Сталина: Биографический энциклопедический словарь. М.: Вече. ISBN 5-7838-0716-8
  4. ^ a b c d e f g Шарангович Василий Фомич”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2016年9月5日閲覧。
  5. ^ Кандыбовіч С. С. (2000). Разгром нацыянальнага руху ў Беларусі. Матэрыялы да беларускай гісторыі. Мн.: Беларускі Гістарычны Агляд. ред., М. Шчадровіч.
  6. ^ Шарангович, Василий Фомич”. Иркипедия. 2016年9月5日閲覧。
  7. ^ «Наши» улицы?”. Портал газеты "Туризм и Отдых" (2011年2月10日). 2016年9月5日閲覧。
  8. ^ 『反ソヴィエト「右翼=トロツキー派ブロック」の公判記錄』外務省調査部、1938年(原著1938年)、850-851頁。 NCID BN08206399NDLJP:1880904 
党職
先代
ダニイル・ヴォルコヴィチ
代行
白ロシア共産党(ボ)中央委員会第一書記
1937年3月18日 - 7月29日
次代
ヤーコフ・ヤコヴレフロシア語版
代行
先代
イヴァン・ヴァシレヴィチ
白ロシア共産党(ボ)中央委員会第二書記
1930年10月15日 - 1934年8月3日
次代
ダニイル・ヴォルコヴィチ
先代
レフ・ロシャリ
全連邦共産党(ボ)イルクーツク管区委員会責任書記
1930年 - 1930年8月
次代
なし