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ヴァシリコ (ロストフ公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴァシリコ・コンスタンチノヴィチ
Василько Константинович
ロストフ公
ヴァシリコ・コンスタンチノヴィチの死
在位 1218年 - 1238年

出生 (1209-12-07) 1209年12月7日
死去 (1238-03-04) 1238年3月4日(28歳没)
配偶者 マリヤ・ミハイロヴナ
子女 ボリス
グレプ
家名 リューリク家
父親 ウラジーミル大公コンスタンチン
母親 アガフィヤ・ムスチスラヴナ
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ヴァシリコ・コンスタンチノヴィチВасилько Константинович, 1209年12月7日 - 1238年3月4日)は、ロストフ公(在位:1218年 - 1238年)。ウラジーミル大公コンスタンチンの長男。

略歴

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1209年に生まれる。

1218年の父の死に伴い、ロストフ公位(およびコストロマ、北部ガーリチ地方)を相続する。

1220年にウラジーミル大公ユーリー2世と共にヴォルガ・ブルガールに遠征し、勝利を収める。

1223年カルカ川の戦いに参加するために準備を進めていたが、到着までに南ルーシ諸公が討ち破られ、北方に引き返した。

1226年にはユーリー大公に率いられて、チェルニゴフミハイル公の支援に駆けつけた。

1227年にはミハイル公の娘マリヤを妃として迎える。

1228年にはモルドヴァ遠征を行う。

1238年にモンゴル軍がルーシの北方に攻め寄せた際に、大公ユーリー2世と共に軍を集めるために北方に向かうが、シチ川の戦いでモンゴルの急襲に遭い戦死した。ロシア正教会聖人とされる。

家族

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公妃マリヤとの間には、ロストフ公国を継いだボリスと、ベロオーゼロ公国を継いだグレプを授かった。

先代
コンスタンチン
ロストフ公
1218年 - 1238年
次代
ボリス