ロベール1世 (ドルー伯)
ロベール1世 Robert Ier | |
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ドルー伯 | |
在位 | 1152年 - 1188年 |
出生 |
1125年頃 |
死去 |
1188年10月11日 フランス王国、ブレーヌ |
埋葬 | フランス王国、ブレーヌ、サン・イヴ・ド・ブレーヌ修道院 |
配偶者 | アニェス・ド・ガルランド |
アルヴィズ・デヴルー | |
アニェス・ド・ボードモン | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | カペー家(ドルー家) |
父親 | フランス王ルイ6世 |
母親 | アデル・ド・サヴォワ |
ロベール1世・ド・ドルー (Robert Ier de Dreux、1125年頃 - 1188年10月11日[1])は、フランス王子、ドルー伯。フランス王ルイ6世と王妃アデル・ド・モーリエンヌの五男でフランス共治王フィリップとフランス王ルイ7世の弟、ブローニュ伯ウスタシュ4世妃・トゥールーズ伯レーモン5世妃コンスタンスとクルトネー領主ピエール1世(クルトネー家の祖)の兄。ドルー家の祖。
生涯
[編集]1145年、アルヴィズ・デヴルーとの2度目の結婚によってペルシュ伯領を得た。1152年のアニェス・ド・ボードモンとの3度目の結婚では、ブレーヌ伯領、フェール・アン・タルドノワ、アルシー、ネール、ロングヴィル、カンシー・スー・ル・モン、サヴィニー・シュラルドル、ボードモン、トルシー、シェイー・アン・ブリー、ロンジュモーを獲得し、ブリー=コント=ロベール領主となった。
1147年、兄ルイ7世とともに第2回十字軍に参加し、1148年に失敗に終わったダマスカス包囲戦にも加わっていた。十字軍終了前にロベールは帰国し、王権を奪うことを望んで兄ルイに対する陰謀を図った。しかし、彼の行動は、王の不在時に王国の摂政を務めていたサン=ドニ修道院院長シュジェールによって阻止された[2]。
イングランド無政府時代にはイングランド勢と戦い、1154年にはノルマンディーのセーに本営を構えていた。
1180年、ロベールはドルーの町に自治憲章を与え、ブリー=コント=ロベールの町をつくった(コント=ロベールとはロベール伯爵を意味する)。1188年に亡くなり、サン・イヴ・ド・ブレーヌ修道院の教会に埋葬された。
子女
[編集]1140年にアニェス・ド・ガルランドと結婚[3]。1子をもうけた。
- シモン(1141年-1182年)
1144年、ソールズベリー伯パトリックの姉妹アルヴィズと結婚。1子をもうけた。
- アデル(アリスまたはアリックス)(1145年 - 1210年以降死去) - 1156年以降にブルトゥイユ伯ヴァレラン3世と結婚、1161年にシャティヨン領主ギー2世と結婚、3度目にジャン1世・ド・トロット(1176年没)と結婚、1183年にソワソン伯ラウル3世・ド・ネールと結婚
1152年、ブレーヌ伯の娘アニェス・ド・ボードモンと結婚。10子をもうけた。
- ロベール(1154年 - 1218年) - ドルー伯
- アンリ(1155年 - 1199年) - オルレアン司教
- アリックス(1156年 - 1217年) - クシー領主ラウル1世と結婚
- フィリップ(1158年 - 1217年) - ボーヴェ司教
- イザボー(1160年 - 1239年) - ブロワ領主ユーグ3世と結婚
- ピエール(1161年 - 1186年) - ブコンヴィル・ヴォークレール領主
- ギヨーム(1163年 - 1189年) - ブリー=コント=ロベール領主[4]
- ジャン(1164年 - 1189年)
- マミリー(1166年 - 1200年) - 修道女
- マルグリット(1167年 - ?) - 修道女
脚注
[編集]- ^ Robert Ier de Dreux sur le site de la Fondation pour le généalogie médiévale
- ^ François Combes L'abbé Suger: Histoire de son ministère et de sa régence 1853, p. 494 et suivantes
- ^ Jean François Paul de Gondi de Retz Mémoires 1876, p. 171
- ^ http://www.heraldique-europeenne.org/Genealogies/Genealogie_Capetienne/Dreux.htm
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