ロベルト・ヤルニ
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名前 | ||||||
ラテン文字 | Robert Jarni | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | クロアチア | |||||
生年月日 | 1968年10月26日(56歳) | |||||
出身地 | ユーゴスラビア社会主義連邦共和国 チャコヴェツ | |||||
身長 | 180cm | |||||
体重 | 77kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
ユース | ||||||
チャコヴェツ | ||||||
ハイドゥク・スプリト | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1986-1991 | ハイドゥク・スプリト | 128 | (17) | |||
1991-1993 | バーリ | 52 | (3) | |||
1993-1994 | トリノ | 23 | (0) | |||
1994-1995 | ユヴェントス | 15 | (1) | |||
1995-1998 | ベティス | 98 | (19) | |||
1998 | コヴェントリー | 0 | (0) | |||
1998-1999 | レアル・マドリード | 27 | (0) | |||
1999-2002 | ラス・パルマス | 43 | (6) | |||
2002 | パナシナイコス | 5 | (0) | |||
通算 | 391 | (47) | ||||
代表歴 | ||||||
1987 | ユーゴスラビア U-20 | 6 | (0) | |||
1990-1991 | ユーゴスラビア | 7 | (1) | |||
1990-2002 | クロアチア | 80 | (1) | |||
監督歴 | ||||||
2007-2008 | ハイドゥク・スプリト | |||||
2010 | イストラ1961 | |||||
2012-2013 | ハイドゥク・スプリト U-19 | |||||
2013-2014 | FKサラエヴォ | |||||
2015-2016 | プスカシュ・アカデーミア | |||||
2017-2019 | クロアチア U-19 | |||||
2019-2020 | ノースイースト・ユナイテッド | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2014年11月4日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ロベルト・ヤルニ(Robert Jarni、1968年10月26日 - )は、クロアチア・チャコヴェツ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF、DF。
選手経歴
[編集]1986年からハイドゥク・スプリトで5年間プレーした[1]。19991年にイタリアのASバーリに移籍、レギュラーを獲得するが、チームはセリエBに降格した。
1993-94シーズン、トリノでレギュラーとしてプレーした後、翌1994-95シーズンにユヴェントスに移籍、ここではリーグ制覇、コッパ・イタリアの2冠を獲得、第32節のジェノア戦ではスーパーゴールを決めたが[2]、外国人枠の問題から限定された出場機会となった[2]。
1995-96シーズンレアル・ベティスへ移籍。ここではチームの中心選手として活躍した。当時絶頂期にあったフィニディ・ジョージとの両ウィングからのドリブル突破で活躍を続けた、98試合で19ゴールを挙げた[1]。しかし、高額な年俸がネックになりレアル・マドリードへ移籍。1999-00シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ優勝を経験した。
このように、クラブレベルでは一応の成功を収めたヤルニだったが、代表選手としては歴史に翻弄された一人だった。1990年、旧ユーゴスラビア代表として1990 FIFAワールドカップではグループリーグのコロンビア戦に出場した。母国の政治情勢により、UEFA EURO '92、1994 FIFAワールドカップの出場資格を剥奪された。6年間、国際舞台から姿を消したヤルニだったが、1998 FIFAワールドカップにクロアチア代表として出場。準々決勝のドイツ戦では決勝ゴールを奪い[3]。グループリーグ初戦のジャマイカ戦、3位決定戦のオランダ戦でそれぞれ1アシストを決めるなど、チームの中心の一人として、準決勝進出、チームの3位に貢献した[3]。
2002 FIFAワールドカップではグループリーグ第2戦のイタリア戦でクロスでオリッチの得点をアシストして勝利したが、グループリーグ敗退となった後、現役引退を発表した。代表チームでは81試合に出場した[4]。
プレースタイル
[編集]強烈な左足のシュートに加え、抜群のスタミナと高精度のクロス[1]、100メートル11秒という圧倒的なスピードを武器に、左サイドを疾風の如く駆け上がり[5]、活躍していた。彼が代表を去って以降、同じレベルでプレー出来る代表選手が現れないとされている[6]。
引退後
[編集]引退後、一時はフットサルの選手として活躍していた。2007年8月からハイドゥク・スプリトの監督に就任した。その後NKイストラ1961、FKサラエヴォ、プスカシュ・アカデーミアFCの監督を歴任し、2017年からU-19クロアチア代表の監督を務める。
脚注
[編集]- ^ a b c “Robert Jarni, dal flop con la Juventus ai Mondiali da protagonista”. GOAL (2022年10月26日). 2023年7月28日閲覧。
- ^ a b ワールドサッカーダイジェスト 1995年8月号 日本スポーツ企画出版社 P.15-17
- ^ a b “Ultimate Croatia dream team - Modric & Rakitic in, Perisic out” (英語). GOAL. 2023年3月23日閲覧。
- ^ “Jarni”. Croatian Football Federation. 2022年3月1日閲覧。
- ^ 週刊サッカーマガジン 1998年4月1日 no.651 p.64-65 ベースボールマガジン社
- ^ “クロアチア代表の「レジェンド完全格付け」。モドリッチ、シュケル、ボバン…豊富なタレントの中からトップに輝いたのは?”. ワールドサッカーダイジェスト編集部 (2021年1月29日). 2023年3月23日閲覧。
外部リンク
[編集]- ロベルト・ヤルニ – FIFA主催大会成績
- ロベルト・ヤルニ - National-Football-Teams.com
- ロベルト・ヤルニ - クロアチアサッカー連盟
- ユーゴスラビアのサッカー選手
- クロアチアのサッカー選手
- サッカーユーゴスラビア代表選手
- サッカークロアチア代表選手
- クロアチアのサッカー指導者
- HNKハイデュク・スプリトの選手
- SSCバーリの選手
- トリノFCの選手
- ユヴェントスFCの選手
- ベティスの選手
- コヴェントリー・シティFCの選手
- レアル・マドリードの選手
- UDラス・パルマスの選手
- パナシナイコスFCの選手
- FIFAワールドカップユーゴスラビア代表選手
- 1990 FIFAワールドカップ出場選手
- FIFAワールドカップクロアチア代表選手
- UEFA EURO 1996出場選手
- 1998 FIFAワールドカップ出場選手
- 2002 FIFAワールドカップ出場選手
- 複数の代表チームに出場したサッカー選手
- クロアチアのフットサル選手
- 1968年生
- 存命人物
- メジムリェ郡出身の人物