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トミスラヴ・イヴコヴィッチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
トミスラヴ・イヴコヴィッチ
名前
ラテン文字 Tomislav Ivković
基本情報
国籍 クロアチアの旗 クロアチア
生年月日 (1960-08-11) 1960年8月11日(64歳)
出身地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア ザグレブ
選手情報
ポジション GK
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1978-1982 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ディナモ・ザグレブ 53 (0)
1982-1983 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ディナモ・ヴィンコヴツィ 15 (0)
1983-1985 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 レッドスター 46 (0)
1985-1988 オーストリアの旗 チロル・インスブルック 88 (1)
1988-1989 オーストリアの旗 ヴィーナー 15 (0)
1989 ベルギーの旗 ヘンク 14 (0)
1989-1993 ポルトガルの旗 スポルティング 133 (0)
1993 ポルトガルの旗 エストリル 9 (0)
1994 ポルトガルの旗 ヴィトーリア・セトゥーバル 17 (0)
1994-1996 ポルトガルの旗 ベレネンセス 64 (0)
1996-1997 スペインの旗 サラマンカ 6 (0)
1997-1998 ポルトガルの旗 エストレラ・アマドーラ 34 (0)
通算 494 (1)
代表歴
1983-1991 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア 38 (0)
監督歴
2009 イランの旗 ピルズィ・テヘラン (助監督)
2010 クロアチアの旗 メジムリェ
2011-2015 クロアチアの旗 ロコモティヴァ・ザグレブ
2016 クロアチアの旗 ロコモティヴァ・ザグレブ
2016-2017 サウジアラビアの旗 アル・ファイサリー
2017-2018 クロアチアの旗 スラヴェン・ベルポ
2018-2019 クロアチアの旗 ルデシュ
2020- クロアチアの旗 インテル・ザプレシッチ
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1984 ロサンゼルス サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

トミスラヴ・イヴコヴィッチクロアチア語: Tomislav Ivković1960年8月11日 - )は、ユーゴスラビア出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代は上背と長い手足を生かし、ハイボールに強いゴールキーパーとして活躍[1]。1980年代後半からユーゴスラビア代表の正ゴールキーパーを務め、連邦崩壊後はポルトガルリーグのクラブを渡り歩いた。

経歴

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クラブ

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イヴコヴィッチは1978年にディナモ・ザグレブでプロとしてのキャリアをスタートさせた。1982年にミロスラヴ・ブラジェヴィッチ監督と衝突してディナモを退団[2]。半年ほどディナモ・ヴィンコヴツィに籍を置いた後、1983年にレッドスター・ベオグラードへ入団した。

1985年オーストリアFCチロル・インスブルックへ移籍。1988年に退団した後、ヴィーナーSCKRCヘンクを経て、1989年にポルトガルスポルティングCPへ移籍した。移籍初年度のUEFAカップSSCナポリ戦では、当時ナポリに所属していたディエゴ・マラドーナに対し「PKが決まったら100ドルやる、止めたら100ドルよこせ」と話しかけ、動揺したマラドーナはPKを外したというエピソードが残っている[3]

スポルティングで4シーズン過ごした後、GDエストリル・プライアヴィトーリアFCCFベレネンセスUDサラマンカCFエストレラ・アマドーラと渡り歩き、1998年に38歳で引退した。

代表

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1983年から1991年までユーゴスラビア代表として38キャップを記録している。1984年の欧州選手権ではゾラン・シモヴィッチの控えとしてメンバー入りし、同年のロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得したチームにも名を連ねた。オリンピックでは良績を挙げたが、欧州選手権では唯一出場したデンマーク代表戦にて5失点を喫し、チームも1勝もあげることなくグループリーグで敗退している。

1990年のワールドカップでは全5試合にフル出場。PK戦までもつれた準々決勝のアルゼンチン代表戦では再びマラドーナのPKを止めるなど活躍を見せたが、チームは3本のPKを外して敗れた[4]

連邦崩壊後はクロアチア国籍を選択したが、ディナモで衝突した過去があるブラジェヴィッチが代表監督に就任したため、クロアチア代表のユニフォームを着ることはなかった。

引退後

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2004年から2006年まで自身も尊敬するズラトコ・クラニチャールのもとで、クロアチア代表のゴールキーパーコーチを務めた[5]。2007年からはクラニチャールとともにアラブ首長国連邦へ渡り、アル・シャバーブのコーチに就任[6]。2009年にはイランピルズィ・テヘランでアシスタントコーチを務めた。

2010年4月からクロアチアNKメジムリェにて初の監督業に挑むが[7]、成績不振により短期間で解任され、クラブも2部リーグへ降格した。

出典

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  1. ^ 木村、p.295-296
  2. ^ 木村、p.295
  3. ^ 木村、p.296
  4. ^ Safet Sušić se molio u kapelici, Maradona se nije usudio pogledati me u oči” (クロアチア語). Index Sport (2010年4月8日). 2010年9月10日閲覧。
  5. ^ 木村、p.306
  6. ^ Cicin oproštajni party zbog odlaska u Dubai” (クロアチア語). jutarnji.hr (2007年7月15日). 2010年9月10日閲覧。
  7. ^ Tomislav Ivković novi trener NK Međimurje” (クロアチア語). NoviList (2010年3月4日). 2010年9月10日閲覧。

参考文献

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  • 木村元彦『蹴る群れ』講談社、2007年、p.295-306頁。ISBN 978-4062137676 

外部リンク

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