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ボブ・ファルケンバーグ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ボブ・ファルケンバーグ
Bob Falkenburg
ボブ・ファルケンバーグ
基本情報
フルネーム Robert Falkenburg
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ブラジルの旗 ブラジル
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク市
生年月日 (1926-01-29) 1926年1月29日(98歳)
身長 1.91 メートル
利き手
バックハンド 片手打ち
殿堂入り 1974年
4大大会最高成績・シングルス
全仏 4回戦(1954)
全英 優勝(1948)
全米 ベスト4(1946)
優勝回数 1(英1)
4大大会最高成績・ダブルス
全英 優勝(1947)
全米 優勝(1944)
優勝回数 2(英1・米1)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全米 準優勝(1945)

ボブ・ファルケンバーグBob Falkenburg, 1926年1月29日 - )は、アメリカニューヨーク出身の男子テニス選手。1948年ウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者で、4大大会の男子ダブルスでも1944年全米選手権1947年ウィンブルドン選手権で2勝を挙げた。彼は後にブラジル人女性と結婚し、ブラジルへの帰化市民となった後に、男子テニス国別対抗戦・デビスカップにブラジル代表選手として出場した。右利きの選手。

来歴

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ファルケンバーグは身長190cmほどの長身選手で、そこから繰り出すサービスは当時のアメリカ男子テニス界では最速と呼ばれた。高速サービスとネット・ダッシュが彼の最大の武器だったが、その独特なプレースタイルが当時のテニスファンに“ひょろひょろしたのっぽが、どたばたしたプレーをする”印象を与えたため、彼には“Daddy-Longlegs”(足長おじさん)というニックネームがつけられた。長身でかがみこんで休息をとる習癖からは“Praying Mantis”(祈るカマキリ)という別のニックネームもついたという。

ニューヨークで生まれたファルケンバーグは、少年時代の大半をカリフォルニア州で過ごした。テニス一家に生まれ育った彼は、兄弟のトムとともに「ロサンゼルス・フェアファックス高校」の代表選手としてプレーし、全米高校対抗テニスで優勝した。彼がテニス界にデビューした1942年は、ちょうど第2次世界大戦の戦時中であった。10代後半でアメリカ陸軍の空軍部に勤務しながら、彼は1943年に全米テニスランキングで「7位」に入る。戦時中も全米選手権だけは途切れることなく続行され、ファルケンバーグは1944年の全米選手権男子ダブルスでドン・マクニールとペアを組み、ここで最初の4大大会タイトルを獲得した。

1945年に第2次世界大戦が終結し、全豪選手権全仏選手権ウィンブルドン選手権などのテニス競技大会は1946年から開催が再開された。終戦の翌年、ファルケンバーグは全米選手権の男子シングルスで自己最高のベスト4に進んだが、この準決勝ではジャック・クレーマーに 0-6, 4-6, 4-6 で完敗した。1947年ウィンブルドン選手権で、ファルケンバーグとクレーマーは男子ダブルスのペアを組み、決勝でトニー・モットラムイギリス)&ビル・シッドウェルオーストラリア)組を 8-6, 6-3, 6-3 で破って優勝した。ファルケンバーグにとっては、これは1944年全米選手権以来2つ目の4大大会男子ダブルス優勝となった。クレーマーの著書『ゲーム-テニスにおけるわが40年』(The Game: My 40 Years in Tennis)によれば、ファルケンバーグは試合前にクレーマーから「ボビー、この試合に勝つには混合ダブルスの戦い方をするんだ。君が男性、僕が女性のようなプレーをする」と指示されたという。

ファルケンバーグのテニス経歴のハイライトは、1948年ウィンブルドン選手権で訪れた。第7シードのファルケンバーグは、準々決勝でレナート・ベルゲリンスウェーデン)、準決勝で同じアメリカのガードナー・ムロイを破って勝ち進み、決勝で第2シードのジョン・ブロムウィッチオーストラリア)と対戦した。試合は最終第5セットにもつれこみ、ブロムウィッチがゲームカウント 5-3 で迎えた第9ゲームで「40-15」(テニス独特のポイントの数え方)とリードし、2本のマッチ・ポイント(このポイントを取れば勝利が決まる。決勝戦なので、ブロムウィッチの優勝が決まるポイント)を迎えた。この土壇場からファルケンバーグがバックハンドのパッシング・ショットで反撃し、最後の4ゲームを連取して 7-5 の逆転勝利を収めた。こうして、ロバート・ファルケンバーグは1948年のウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者に輝いた。しかし、大会前年優勝者として臨んだ翌1949年のウィンブルドンでは、準々決勝でそのブロムウィッチに敗れてしまう。この試合の後、彼はしばらくテニス界から遠ざかった。

ファルケンバーグはこの後ブラジル人の女性と結婚し、アメリカを離れてブラジルに帰化した。ブラジル帰化市民となった後、彼は1954年1955年の2年間テニス界に復帰し、デビスカップのブラジル代表選手を務めた。ブラジル国籍取得後の成績は、1954年全仏選手権4回戦(唯一の出場)・ウィンブルドン選手権3回戦(5年ぶりの出場)・1955年全米選手権2回戦がある。すでに全盛期を過ぎていた彼は、デビスカップでイギリスオーストラリアの代表選手に全敗し、2年間のデ杯通算成績は「3勝7敗」で終わった。1955年全米選手権の2回戦敗退を最後に、29歳で現役を引退し、1974年国際テニス殿堂入りを果たしている。

ブラジルの有名なファーストフードチェーン「Bob's」(ボブズ)は、ファルケンバーグが創業した店で、彼の名前にちなんでつけられた社名である。

4大大会優勝

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参考文献

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  • Martin Hedges, “The Concise Dictionary of Tennis” (コンサイス・テニス辞書) Mayflower Books Inc., New York (1978) ISBN 0-8317-1765-3
  • Jack Kramer, “The Game: My 40 Years in Tennis” (ゲーム-テニスにおけるわが40年) G. P. Putnam's Sons, New York (1979) ISBN 0-399-12336-9 本書からは149・150ページを参照した。

外部リンク

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