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軍服 (ロシア・ソ連)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロシア・ソ連の軍服から転送)
1919年制定の軍服(1922年)
1943年大改定後(1945年ヤルタ会談
1969年大改定後の地上軍将官(中央)、将校(開襟)、兵士(折襟)各常勤服(1981年)

ロシア・ソ連の軍服(ロシア・ソれんのぐんぷく)はロシア帝国(19世紀以降)、ソビエト連邦ロシア連邦における軍服の特徴と歴史を扱う。また、その他国への影響についても適宜言及する。

概観

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19世紀から20世紀初頭にかけて、ロシア帝国はヨーロッパ・アジア両大陸に覇を唱える軍事大国であり、軍服もフランス第一帝政や、その支配を受けたプロイセンなど他のヨーロッパ諸国の影響を受けながら独自の発達を遂げた。ロシア革命の結果ソビエト連邦が成立し、さらに第二次世界大戦後の社会主義陣営の広がりと東西冷戦の中で、世界の二大軍事勢力の盟主となるに至ったソ連軍の軍服は、アメリカ軍のそれと並んで20世紀後半の世界各国の軍服に影響を与えることとなった。

ロシア帝国の軍服

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ピョートル1世の時代に大規模な軍制刷新が図られると、新たな制服の導入も行われる事となった。ハンガリー風にするかフランス風にするかで議論が分かれたが、より西欧的なフランス1661年制式風の軍服を導入した[1]。1702年にはドイツ式となる[1]。1796年にはナポレオンジャケットとなるが、1802年以降プロイセン風のフロックコートとなる[2]。1881年以降、前合わせの広いボタンレスとなるがその後徐々にボタンが復活。色は近衛騎兵を除き一貫して「ツァーリ・グリーン」あるいは「海の波」と呼ばれる深緑色で統一された。また、コサックは主にカフカス諸民族の伝統的衣装であるチョハ(チェルケスカとも)を着用するが、一部では常備軍と同じ軍服を着用するところもある。

歩兵・擲弾兵・戦列歩兵共通で、鉢巻と襟には連隊色が、肩章には旅団色と師団番号が示される。連隊名に王侯の名前が付く部隊は肩章に冠とイニシャルが入る。

1907年以降、国際的潮流に合わせ全兵科共通でカーキ色シングルブレストの詰襟となる。将校は胸に2点ポケット、下士官兵はボタンなしだが、古参兵など好んで将校風の仕立てを好むものもいた。1914年10月31日、野戦肩章が制定される。

ロシアの軍服は第一次世界大戦前から、ロシア帝国汎スラブ主義の盟主と仰いでいた東ヨーロッパのいくつかの国の軍服に影響を与えていた。例:ブルガリアセルビア(第一次世界大戦後ユーゴスラビア王国となる)等。それは肩章で表される階級章のパターン(後述)に最も顕著に現れている。

ソビエト連邦の軍服

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だが当のロシア国内では第一次大戦中にロシア革命が発生、その結果誕生したソビエト連邦労農赤軍1946年に「ソビエト軍」と改称)では、軍服のデザインにおいて旧体制のイメージにつながる要素の一新が図られた。すなわち、縦長の楕円形の帽章にかわって、共産主義を象徴する赤い星に金色の鎌とハンマーを組み合わせた帽章、上着は立襟にかわって折襟、階級章は肩章にかわって襟章(台布は一部の兵科を除き陸軍は赤、空軍は空色)が用いられるようになった。一方海軍は兵・下士官は世界共通の水兵服、将校は立襟の上着、階級は袖章(金色の横線の数)で表した。多少の変更を含みながら1943年までこのパターンは続き、また各国の共産党指揮下の武装組織(中国の紅軍[要出典]やユーゴスラビアのパルチザン、国家の軍隊としてはモンゴル人民共和国)の軍服にも影響を与えた。

革命直後~内戦期

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1919年 / 1922年制式

革命後の赤軍は、しばらくは階級徽章一切を取り外した帝政期の軍服や鹵獲した海外干渉軍の被服を使用した。中でも英軍戦闘服は好まれ、それを模倣したもの(ジョン・フレンチから「フレンチ」と呼称されていた)も多く作られた。1918年の4月に帽章が制定され、1919年の革命軍事評議会第116号指令にてシェレム(ブロードのヘルメットの意、俗称ブジョノフカセミョーン・ブジョーンヌイに由来する)と呼ばれる帽子とルバーハ(ギムナスチョルカ)、カフタン(外套、のち帝政期呼称のシネーリに戻す)が制定された。ルバーハは詰襟で、正面合わせには騎兵の肋骨服のような装飾が配され、階級に相当する役職章を袖に示した。帽章と肋骨は兵科によって塗り分けられていた。歩兵は赤、工兵は黒、砲兵は橙、航空兵は水色、騎兵は青、国境警備隊は緑である。1922年に量産化のため折襟に変更などの改正がなされたが、鮮やかな襟の装飾は現代戦では不適当であるとのことから、1924年にフレンチ型に変更された。しかしブジョノフカはのちのピロートカに取って代わられるまで長らく使用され、冬戦争でもブジョノフカを使用していた兵士がいた事が鹵獲品から確認できる。

極東共和国の軍服

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極東共和国では正式な軍服というものは存在しなかった。帝政時代のキーチェリの流用やフレンチ、フランス軍の軍服などを個人調達によりめいめい独自のものを着用しており、1920年11月30日付の極東共和国軍事関係官庁指令No.62により、袖に階級に順ずるものを縫い付けていた[3]

戦間期~大祖国戦争

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1935年

1930年代に入ると、スターリンによる統治が安定して近代化・工業化が進み、赤軍にも現代戦術に適応するための専門性が求められるようになる。こうして有資格者としての将校の身分が復活、軍服も兵との区分化が図られるようになった。

1935年12月3日付軍令176号により、制帽の鉢巻に兵科色が入り、庇は黒革となった。上衣はフレンチ、ギムナスチョルカ共通して襟と袖のパイピング、ズボンの側線に兵科色が入り、袖にV字型の階級章が付く。1936年3月10日付軍令33号により兵科徽章が改定。

また、戦車兵と航空兵にはそれぞれ灰色とダークブルーのブレザー制服が導入される。1941年2月1日付け軍令005号により、フレンチ制服、戦車兵と航空兵開襟制服、士官用ピロートカが廃止される。

1943年改正

第二次世界大戦独ソ戦)最中の1943年、ナショナリズムを鼓舞する意図からか、赤軍の軍服に、先述の帝政ロシア軍の要素が大幅に導入(換言すれば「復活」ないし「復古」)された。すなわち、縦長楕円形の帽章(中心に従来の赤い星がくる)、立襟の上着(従来の折り襟と併用)、肩章で表す階級章である。加えて、将官には制帽や襟の装飾に金の葉模様刺繍をふんだんに用いた礼服も制定された。第二次世界大戦後の社会主義陣営の軍隊にも大きな影響を与えたソ連軍の軍服にはこうして、「共産主義の軍隊」と「ロシア軍」の2つの要素が混在することになった。

1943年以降のソ連軍がロシア軍から引き継いだもっとも顕著な軍服の特徴は肩章であろう。それは19世紀に各国で一般的であった「エポレット」の影響を色濃く残す幅の広い肩章で、概ね以下のようなパターンで階級を表す。

  • 正式(礼服・勤務服に用いる)
    • 兵・下士官は兵科色の地色(以下同)に金色の横線の刺繍の数で表す。
    • 尉官は2本、佐官は3本の太い金色の縦線の刺繍が入り、その上に付く星の数で表す。
    • 将官は地色(兵科色)を縁に細く残して肩章全体を金色の刺繍が覆い、その上に星の数で表す。
  • 略式(戦闘服、後には勤務服にも用いる。迷彩効果を高めたもので、正式の肩章とは「地」と「柄」の関係が逆転している)
    • 兵・下士官は服生地と同じ色の肩章(以下同)に兵科色の横線の数で表す。
    • 尉官は兵科色の縁取りに1本、佐官は2本の兵科色の細い縦線が入り、その上に付く銀色の星の数で表す。
    • 将官は兵科色の縁取りに、金色の星の数で表す。
  • また元帥は大きな1個の星とソビエト連邦の紋章を並べて表されるが、これは帝政ロシアの「双頭の鷲」の紋章をあしらった階級章にヒントを得たものと思われる。

第二次大戦後

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第二次大戦後、ソ連の軍服は社会主義陣営の国々の軍服に大きな影響を与え、特に上述の「ロシア式」肩章が多くの国で採用された。例:モンゴル北朝鮮中国195565年1988年~)、ルーマニアアルバニア(1945~66年)、キューバ南イエメンモザンビーク等。

一方、東ドイツポーランドチェコスロバキアハンガリーでは50年代にはソ連軍式の階級章になったもののその後60年代には戦前との連続性の強い階級章が導入された。またブルガリアはソ連式の階級章を導入したが、先述のようにブルガリアの軍服には戦前からロシア軍の影響が強かったので(戦中はこれにドイツ軍の影響を加味したデザインであった [1][2])、その意味では伝統の踏襲とも取れる。これらについては、ドイツ民主共和国の軍服中・東欧の軍服なども参照。

戦闘服については、兵は常勤服と共用する古めかしいデザインであったが、アフガニスタン紛争をきっかけにより機能的な被服が求められ、1980年代に入ってからは迷彩柄の新型が採用された。戦闘用の軍靴についても、第二次大戦以来の革製の長靴が長らく使用されていたが、1980年代以降は半長靴へ移行していった。

その他、ソ連軍から各国の軍服に広まった軍服の要素としては、ヘッドホンを内蔵し緩衝パッドをつけた戦車帽、水兵空挺軍海軍歩兵特殊部隊兵士が着用するテルニャシュカロシア語版英語版(白地に青の横縞が入ったボーダーシャツ)等がある。

また独力で内発的に抵抗戦争と革命を達成したとの自負の強い国々では、ソ連式ではない或いはソ連式に近いが異なる、独自形式の階級章を導入している例:ユーゴスラビアアルバニア中国ベトナムキューバ等(うちアルバニアと中国では1960~80年代に階級制度と階級章自体が廃止)。

1950年代~60年代

69年大改正以前の改訂は細部に留まり、1943年改訂以来のキーチェリやギムナスチョルカが使用された。士官は、1955年にスチールグレーの礼装が導入される。1956年には帽章・制帽が改正。1958年には礼服・外出服・常勤服として平時より完全に開襟となった。また下士官兵ではパレード制服が1956年に外出服兼用となり使用範囲が広まった。

1969年改正

将校はM58を継承しているが、それまで礼服用だった縁取りの入る襟章が外出服・常勤服で使用されるようになる。野戦服では折襟で徽章・ボタンを保護色化した被服が使用されたが1988年改訂で廃止され、代わってブルゾン型被服が使用された。兵士は折襟となり、徽章を取り換える事で野戦服・常勤服を兼ねた。外出服兼礼服では将校と同型の開襟被服を着用するが、帽章が異なる。

1981年に「アフガンカ英語版」と呼ばれる機能性の高い2ピース型の戦闘服が導入された。迷彩服としては、野戦服の上より着こむオーバーオール型のKLMK(КЛМК、Камуфлированный Летний Маскировочный Комбинезонの略)のほか、特殊部隊向けに2ピース型のKZM、化学戦向けのKZSなどが使用された。これらの迷彩は「白樺迷彩/Березка」(Berezka、ベリョーズカ、日本ではベレスカと表記されることが多い)と呼ばれる2色迷彩が使用された。1985年にTTsKO(ブタン迷彩)と呼称される3色迷彩のアフガンカ型野戦服を導入。このほか、KGBでは「P-79」や「スペツォデジダ英語版」と呼ばれるアフガンカ型迷彩服が使用された。

空挺軍はテルニャシュカの上より地上軍の熱帯地野戦服に似た開襟常勤服を着用。また、1988年には開襟ブレザー型のパレード制服を導入した。ただし、このパレード制服は1986年の10月革命記念閲兵式などで既に着用が見られ、慣習化していたものを88年に追認したものと思われる。

海軍は1号~6号に分類され、それぞれ用途が異なる。1号は上下ともに白、2号は上が白で下は黒、3号は上下ともに黒。

ソビエト連邦解体後

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ロシア軍の軍服

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1991年にソビエト連邦が解体して後のロシア軍の軍服は、ソ連軍の軍服から「ソ連」「共産主義」につながる意匠(赤い星等)を排除する一方、1943年に復活した「ロシア軍」の要素と、第二次大戦後に新しく加えられた要素(開襟ネクタイ式の上着や迷彩服等)をほぼそのまま踏襲したものになっていた。

ソ連解体後に新たに加わった要素としては、従来の楕円形の帽章の上に付く「双頭の鷲」(東ローマ帝国の後継者と自任するロシアの象徴)の帽章などがあげられる。また、大統領連隊では帝政ロシア時代の親衛隊の礼服を復活させるなど、他の軍隊がそうであるように伝統回帰の傾向が見られる。また、戦闘用軍靴についても、革製の半長靴から、靴紐が付いた合皮製の編上靴へと変化している。

2008年ファッションデザイナーであるヴァレンティン・ユダシュキン [3] のデザインによる新型軍服が採用された。制服はいくつかの変更点が見られるものの、依然として旧ソ連軍の軍服に近いデザインとなっている。しかし、この制服は機能性よりデザインを重視していたため、2010年には厳冬の中250人ほどの兵士が風邪を引いたり肺炎を起こしたりしたことが問題となった。[4]

一方で迷彩服には、UCPのような、ドットで構成されたデジタル迷彩柄「デジタルフローラ」が採用された。この迷彩服は防寒ジャケットの重ね着により15℃から-40℃までの気温変化に対応可能であり、南オセチア紛争以降急速に普及した。

また、ロシア軍はかねてより特殊部隊など部隊単位でさまざまな柄の迷彩服を着用している。中にはフィンランド軍のM05迷彩服に酷似したものもあり、フィンランド国防省が調査に乗り出したこともあった。

現場での悪評を受けて、デザインを手がけたヴァレンティン・ユダシュキンは、セルゲイ・ショイグが国防相に就任した2012年11月にもう一度制服を作り直すことを表明した [5]2014年より順次常勤服のネクタイを廃止し、ファスナージャケットにTシャツといった作業服スタイルの制服となった。この制服にはショイグ国防相の意向が反映されたと言われる。 2017年からは将校向け礼装に帝政ロシア時代のものに類似した詰襟制服が採用された。

諸外国と同様にロシア軍においても歩兵の戦闘行動を支援するシステムの開発がなされている。ラトニク(露:Ратник、戦士の意)はロシア軍の先進歩兵装備システムであり、2011年の航空ショーMAKS2011で公開され2012年より軍でのテストを開始、2015年に初納入した。 ラトニクはロシア版GPSであるGLONASSと連携したウェアラブル端末や部隊指揮官向けタブレット、音声や映像の送受信が可能なストレレッツシステム(露:Стрелец、銃兵隊の意)、熱線暗視装置を内蔵したヘッドセットのほか各種タクティカルベスト、防弾ベスト、ヘルメットなど10系統59種類の装備で構成される。報道によれば、ロシア国防省は毎年50,000セットを購入し2020年までに7割超の部隊がラトニクを装備する予定である。

現在の制服

過去の制服

その他の旧ソ連諸国の軍服

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中・東欧の軍服も参照。

ロシア以外の旧ソ連諸国の軍服のうち、ベラルーシカザフスタンキルギスタントルクメニスタンウズベキスタンタジキスタン等のCIS諸国では旧ソ連との連続性(ロシア軍との共通性)が強い。他方、ソ連への併合に対する反感が根強かったバルト三国リトアニアラトビアエストニア)等では独自色の強い軍服が採用されている。かつてロシア軍と似たデザインであったウクライナも、ロシアとの紛争を経て西側諸国に近いデザインに刷新された。 コーカサスの国ではアルメニアの軍服はロシア軍との共通性が強い軍服であるが、 アゼルバイジャンではトルコ軍に近い軍服が近年になり採用され グルジアでは米軍式の軍装が取り入れられつつある。 これはコーカサス三国同士およびロシアとの歴史的、宗教的、政治的な関係、対立、背景が影響している。 また旧ソ連諸国ではないが軍服や階級制度などが共通したものであったモンゴルにおいても米軍の軍装に近い軍装となったが依然としてロシア軍と共通性の高い軍服を採用している。

ソ連崩壊直後のCIS軍隊では、ロシア軍同様に多量に余ったソ連時代の軍装品が使用され続けた一方で、ウズベキスタン軍など中央アジアの軍隊では東ドイツなど第三諸国の余剰軍装品も他国から供与され使用された。このように近隣諸国軍には旧ソ連時代からの迷彩服が多く残っており、南オセチア紛争では敵味方を識別するためロシア兵が腕に白色の布を巻いて行動した。

ベラルーシ

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カザフスタン

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アゼルバイジャン

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脚注

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  1. ^ a b 辻元 2016, p. 116.
  2. ^ 辻元 2016, p. 119.
  3. ^ 極東共和国人民革命軍の軍装はどういうものだったのか?
  4. ^ http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_soc&rel=j7&k=20101216026169a
  5. ^ “Designer Valentin Yudashkin disowns the new maligned military uniform”. Russia & India REPORT. (2012年11月22日). http://indrus.in/articles/2012/11/22/designer_valentin_yudashkin_disowns_the_new_maligned_military_unifor_19251.html 2012年12月9日閲覧。 

参考資料

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  • 辻元 よしふみ,辻元 玲子『軍装・服飾史カラー図鑑』イカロス出版、2016年。ISBN 978-4-8022-0225-1 

関連項目

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外部リンク

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