レオ・プッツ
レオ・プッツ Leo Putz | |
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自画像(1919) | |
生誕 |
1869年6月18日 イタリア, メラーノ |
死没 |
1940年7月21日 イタリア, メラーノ |
運動・動向 | 分離派,ドイツ印象派 |
レオ・プッツ(Leo Putz、1869年6月18日 - 1940年7月21日)[1]はチロル地方生まれの画家である。ドイツやブラジルなどで働いた。
略歴
[編集]当時オーストリアの領地であった、南チロルのメラーノの市長の息子に生まれた[2]。16歳からミュンヘン美術院で歴史画家のガブリエル・フォン・ハックル(Gabriel von Hackl)に学んだ後、パリのアカデミー・ジュリアンで学んだ。軍役についた後、ミュンヘンに戻り、ヘッカー(Paul Hoecker)に学んだ[1]。1897年には自らのスタジオを開きミュンヘン分離派のメンバーの一人となった。
この時期、週刊雑誌、"Jugend" の挿絵画家として働き、何度も表紙絵を描いた。商業美術の分野でも働き、アールヌーボー様式の多くのポスターなども描いた。
1903年にはドレスデン美術館(Staatsgalerie Dresden)やミュンヘンの美術館、ノイエ・ピナコテークに多くの作品を買い上げられ、1909年にバイエルンの名誉市民に選ばれた[2]。この時期、夏はオーバーバイエルンの自然の中で写生をして過ごし、若い学生も伴った。学生にはアメリカ出身のクキュエル(Edward Cucuel)がいた。1913年に風景画家のブレル(Frieda Blell)と結婚した。
ブラジルに美術学校を創設した一人である、建築家、ルシオ・コスタの招きに応じて1929年に家族とブラジルに渡り、1931年に国立美術学校(Escola Nacional de Belas Artes)の教授に就任した[1]。この時指導した学生にはロバート・ブール・マルクスがいる。1933年までブラジルで働き帰国した。
ドイツではナチスの反対者となり、ナチスからその作品が「退廃芸術」("degenerate")であると非難された芸術家の一人となった。1936年にはゲシュタポの尋問を再三、受けてので、故郷のチロルに逃れた。1937年にドイツで働くことが禁じられた[2]。故郷で風景画を描いて暮らし、1940年にメラーノで没した。
作品
[編集]参考文献
[編集]- ^ a b c Eva Chrambach: Putz, Leo. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 21, Duncker & Humblot, Berlin 2003, ISBN 3-428-11202-4, S. 23 f. (電子テキスト版).
- ^ a b c Leo Putz Information website