ルノー・ド・クルトネー
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ルノー・ド・クルトネー Renaud de Courtenay | |
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サットン領主 | |
在位 | 1161年 - 1190年 |
死去 |
1190年 |
配偶者 | エレーヌ(アヴォワーズ)・デュ・ドンジョン |
モード・デュ・サプ | |
子女 |
ルノー2世 エリザベート |
家名 | クルトネー家 |
父親 | マイル・ド・クルトネー |
母親 | エルマンガルド・ド・ヌヴェール |
ルノー・ド・クルトネー(フランス語:Renaud de Courtenay, ? - 1190年)あるいはレジナルド1世・ド・コートネイ(英語:Reginald I de Courtenay)は、イングランドに居を構えたフランス出身の貴族で、1335年にデヴォン伯となったコートネイ家の始祖である。バークシャーのサットン領主となった。
出身
[編集]ルノーは、フランス王国のクルトネー(現在のフランス中北部ロワレ県)の領主(荘園領主)マイル(ミロ)・ド・クルトネーと妻のエルマンガルド・ド・ヌヴェールとの間に生まれた息子である。
ルノーは父の後を継いでクルトネー領主となった。ルノーはフランス王ルイ7世とともに第2回十字軍に参加した。しかしルイ7世と反目したため、ルイ7世はルノーのフランスにおける領地を没収し、ルノーの娘エリザベートを末弟のピエール(1183年没)と結婚させてその領地をピエールに与えた。ルノーは1161年にサットン領主となった[1]。
結婚と子女
[編集]ルノーはフェリー・デュ・ドンジョンの娘エレーヌ(アヴォワーズ)と結婚した。この結婚で以下の子女が生まれた。
- ルノー2世(1125年 - 1194年9月27日) - 1172年にイングランド王ヘンリー2世のアイルランド遠征に従いウェックスフォードに向かった。デヴォンのオークハンプトンの女子相続人で、父ルノーの2番目の妃モード・デュ・サプの異父姉アヴォワーズ・ド・キュルシー(1219年没)と結婚した[2]。この結婚によりオークハンプトン城を手に入れ、その後何世代にもわたり子孫が保持した。息子ロバート(1242年没)は、初代デヴォン伯ヒュー・ド・コートネイ(1340年没)の曽祖父にあたる。
- エリザベート(1127年 - 1205年9月) - フランス王ルイ7世の末弟ピエール1世・ド・クルトネー(1183年没)と結婚[3]
2度目にオークハンプトン領主ロバート・フィッツエディス(1172年没、イングランド王ヘンリー1世の庶子)の娘モード・デュ・サプと結婚した。
脚注
[編集]- ^ Mosley 2003, p. 1122.
- ^ Sanders 1960, pp. 69–70.
- ^ Vincent 1999, pp. 201–202.
参考文献
[編集]- Mosley, Charles (2003). Burke's Peerage, Baronetage & Knightage. volume 1 (107th ed.). Wilmington, Delaware, U.S.A.: Burke's Peerage (Genealogical Books) Ltd.
- Sanders, I.J. (1960). English Baronies. Oxford. pp. 69-70, Barony of Okehampton
- Vincent, Nicholas (1999). “Isabella of Angouleme:John's Jezebel”. In Church, S. D.. King John: New Interpretations. The Boydell Press