ルドルフ・ヘルンレ
アウグスト・フリードリヒ・ルドルフ・ヘルンレ(August Friedrich Rudolf Hoernle、1841年11月14日 - 1918年11月12日)は、イギリスのインド学者。中央アジアの古文書の解読で知られる。ホータン語の初期の解読者でもあったが、その功績は長い間忘れられていた[1]。
英語式の綴りでは「Augustus Frederic Rudolf Hoernle」[2]。
共産主義者のエドウィン・ヘルンレは甥[3]。
生涯
[編集]ヘルンレは、インドのアーグラのシカンドラーに生まれた。父のクリスチャン・テオフィルス・ヘルンレはルートヴィヒスブルク生まれのドイツ系で[4]、はじめバーゼル伝道会にはいって[5]ペルシアに赴任したが、その後英国聖公会宣教協会 (CMS) によってアーグラに派遣された[6]。
ヘルンレは7歳のときからドイツで教育を受け、スイスのバーゼル大学で神学を学んだ後、1860年にロンドンへ渡った。1864年から翌年にかけて、ロンドン大学でテーオドール・ゴルトシュテュッカーにサンスクリットを学んだ[3]。
1865年に英国聖公会宣教協会によってインドのメーラトに宣教師として派遣されたが、本人の願いによって1869年にベナレスの大学 (Jay Narayan's College) でサンスクリットと哲学の教授に就任した。1872年にテュービンゲン大学の博士の学位を得た。
1874年にいったんイギリスに戻り、1877年に結婚した。翌年再びインドに渡り、カルカッタのカテドラル・ミッション・カレッジ(CMSの大学)の校長を経て、1881年からカルカッタ・マドラサ(現アーリヤー大学)の校長をつとめた。1897年にインド帝国勲章(CIE)を授けられた[7]。1899年に退官し(後任はオーレル・スタイン[8])、帰国してオックスフォードに住んだ。1918年にインフルエンザによって死亡した[3]。
業績
[編集]ヘルンレは、英印軍のハミルトン・バウアー中尉がクチャ近辺で入手した樺皮写本を調査し、1891年にそれが5世紀のサンスクリット文書であることを明らかにした[9][10]。この報告は大きな反響を呼び、中央アジア探検ブームの引き金になった[7]。ヘルンレ自身の名声もあがり、インド植民政府は得られた写本をヘルンレに送るよう指示した[11]。これらの写本は現在大英図書館にあり、ヘルンレ・コレクションの名で知られる[12]。文書はサンスクリット、ホータン語、トカラ語、古ウイグル語、ペルシア語、中国語のものを含む[13]。
スタインの探検計画にヘルンレは大いに喜び、インド当局がスタインを支援するように働きかけた[14]。スタインが発見したものはイギリスに送られ、まずヘルンレが整理してから大英博物館に収められた[15]。
中央アジアからもたらされた写本の報告書は1916年に第1巻が出版されたが、著者の死によって中断された。
偽作問題
[編集]ヘルンレのもとに送られてきた文書の中には偽作もあった。悪名高いのはホータンのイスラム・アフーンによる偽作で、ヘルンレはこれらの文書を読めなかったが、まじめに論文で取りあげた[16]。後にスタインがイスラム・アフーンを直接訊問して、偽作であることを明らかにしたが、この事件はヘルンレの名声を傷つけた[17]。
主な著書
[編集]- A Comparative Grammar of Gaudian Languages. London: Trübner & Co. (1880)(現代インド・アーリア諸語の文法。フランスのヴォルネー賞を受賞した[2])
- A Comparative Dictionary of the Bihārī Language. Calcutta. (1885)(グリアソンと共著)
- Studies in the Medicine of Ancient India part 1: Osteology or the Bones of the Human Body. Oxford: Clarendon Press. (1907)
- Manuscript Remains of Buddhist Literature found in Eastern Turkestan. 1. Oxford: Clarendon Press. (1916)(共著、第1巻のみ)
大谷大学ヘルンレ文庫
[編集]1920年、仏教学・サンスクリット学者泉芳璟(1884-1947)が、イギリスのケンブリッジ市の書店でヘーンル旧蔵の仏教、医学、言語、文学に関する431冊の書籍を発見した。そのほとんどはインドで出版されたものである。これは現在、大谷大学の図書館に保管されている。このコレクションは、現在、大谷大学の図書館に保管されている。
脚注
[編集]- ^ Sims-Williams (2012a)
- ^ a b Grierson (1919) p.114
- ^ a b c Sims-Williams (2012b) p.1
- ^ Hoernle, J.F.D. (1884) p.1
- ^ Hoernle, J.F.D. (1884) p.20
- ^ Hoernle, J.F.D. (1884) p.69-70
- ^ a b Grierson (1919) p.117
- ^ Sims-Williams (2012b) p.3
- ^ “Birch Bark MS. from Kashgaria”. Proceedings of the Asiatic Society of Bengal (Apr. 1991): 54-65. (1892) .
- ^ 『貴重書で綴るシルクロード』ディジタル・シルクロード(国立情報学研究所) 。
- ^ 小島(2014) p.18
- ^ 『イギリス コレクション』国際敦煌プロジェクト: シルクロード オンライン 。
- ^ Sims-Williams (2012b) p.2
- ^ Sims-Williams (2012b) pp.2-3
- ^ Sims-Williams (2012b) pp.4-5
- ^ “Three further Collections of Ancient Manuscripts from Central Asia”. Journal of the Asiatic Society of Bengal 66/I: 213-260. (1897) .
- ^ イスラム・アフーンについては以下を参照:スタファン・ローゼン 著「スウェン・ヘディンコレクションにおける偽造サカ文書」、冨谷至 編『流沙出土の文字資料:楼蘭・尼雅出土文書を中心に』京都大学学術出版会、2001年。ISBN 4876984182。
参考文献
[編集]- Grierson, G. A (1919). “Obituary Notices: Augustus Frederic Rudolf Hoernle”. The Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland: 114-124. JSTOR 25209477.
- Hoernle, J.F.D. (1884). Memoir of the Rev. Christian Theophilus Hoernle. London
- Sims-Williams, Ursula (2012a) [2004]. “Hoernle, Augustus Frederic Rudolf”. イラン百科事典. XII/4. pp. 418-420
- Sims-Williams, Ursula (2012b). “Rudolf Hoernle and Sir Aurel Stein”. In Helen Wang. Sir Aurel Stein: Colleagues and Collections. The British Museum. ISBN 9780861591848
- 小島康誉「スタイン第四次新疆探検とその顛末」『佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要』第10巻、2014年、1-163頁。