ルキウス・フリウス・カミッルス (紀元前349年の執政官)
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ルキウス・フリウス・カミッルス(Lucius Furius Camillus)は紀元前4世紀の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前349年に執政官(コンスル)を務めた。
経歴
[編集]ローマ第二の創建者と謳われるマルクス・フリウス・カミッルスの息子である。紀元前350年に民会運営のために独裁官(ディクタトル)に任命された[1]。
翌紀元前349年には、執政官(コンスル)に就任。同僚執政官はアッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシスであったが、任期完了前に死亡した。補充執政官は選出されなかったため、ルキウス・フリウスはこの間の単独の最高責任者であった[2]。ルキウス・フリウスは10個軍団を編成、イタリア北部に侵入してきたガリア人に向かい、野戦で彼らに勝利した。このときに、伝説的な英雄でトリブヌス・ミリトゥム(高級士官)であったマルクス・ウァレリウス・コルウスが、一騎打ちで巨大なガリア戦士を倒したとされる[3]。
紀元前345年には独裁官に就任し、突如ローマに反乱したアウルンキ(en)と戦った。この戦いの最中に、ルキウス・フリウスは神の加護を得るためにユーノー・モネータ神殿(en)を建立することを誓った。神殿は翌年カピトリヌスの丘のマルクス・マンリウス・カピトリヌスの屋敷跡(マルクスが王位を狙ったとして死刑になった後、空き地になっていた)に建立された[4]。
参考資料
[編集]- ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、VII, 24.
- ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、VII, 25.
- ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、VII, 26.
- ^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、VII, 28.
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 マルクス・ポピッリウス・ラエナス III ルキウス・コルネリウス・スキピオ |
執政官 同僚:アッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシス 紀元前349年 |
次代 マルクス・ウァレリウス・コルウス マルクス・ポピッリウス・ラエナス IV |