ルキウス・ウェトゥリウス・ピロ (紀元前220年の執政官)
ルキウス・ウェトゥリウス・ピロ L. Veturius L.f. Post.n. Philo | |
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出生 | 不明 |
死没 | 紀元前210年 |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | ウェトゥリウス氏族 |
官職 |
執政官(紀元前220年) 独裁官(紀元前217年) 監察官(紀元前210年) |
指揮した戦争 | ローマ・ガリア戦争 |
後継者 | ルキウス・ウェトゥリウス・ピロ (紀元前206年の執政官) |
ルキウス・ウェトゥリウス・ピロ(ラテン語: Lucius Veturius Philo、- 紀元前210年)は紀元前3世紀後期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前220年に執政官(コンスル)、紀元前217年に独裁官(ディクタトル)、紀元前210年には監察官(ケンソル)を務めた。
出自
[編集]ピロはパトリキ(貴族)系ウェトゥリウス氏族の出身。父のプラエノーメン(第一名、個人名)はルキウス、祖父はポストミウスである。紀元前206年の執政官ルキウス・ウェトゥリウス・ピロは息子であるが、氏族としては最後の執政官となった。
経歴
[編集]紀元前220年、ピロは執政官に就任。同僚執政官はガイウス・ルタティウス・カトゥルスであった。カピトリヌスのファスティの紀元前 221年 - 紀元前219年の分は欠落しているが、354年のローマ歴(Chronographus anni 354)では、この年の正規執政官はマルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスとクィントゥス・ムキウス・スカエウォラであったとする[1]。しかし、両者は比較的は早く辞任せざるを得なかったと推測される。両者共にクラウディウス氏族の一派に属しており、対立するアエミリウス氏族とコルネリウス・スキピオ家との政治抗争に巻き込まれたものと思われる[2][3]。
執政官に就任したピロとカトゥルスは、ガリア・キサルピナ(アルプスの南側のガリア)に進軍しその土地の多くのガリア部族を大きな困難なく征服した。しかし、この遠征に関する詳細は不明である[4]。
紀元前217年、第二次ポエニ戦争中で両執政官共に出征しており、ピロは選挙実施のための独裁官に任命された。ピロは騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)にマルクス・ポンポニウス・マトを指名した。
紀元前210年には監察官に就任。同僚監察官はプブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェスであった。しかしピロはまもなく死去。監察官としての業務を実施する時間も無く、慣例に従ってディウェスも辞任した[5]。
ティトゥス・リウィウスによると、ピロとディウェスは、戦利品に関する不正で有罪となっていた元執政官マルクス・リウィウス・サリナトルを元老院に復帰させるよう活動したとされる[6]。
脚注
[編集]参考資料
[編集]- ヨハナス・ゾナラス『年代記』
- ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
- Broughton R. "Magistrates of the Roman Republic" - New York, 1951. - Vol. I. - P. 600.
- Johnson, Paula, "Fabius, Marcellus and Otacilius: The Alliance That Never Was",
- Dorey, TA, "The Treaty With Saguntum"