ルイーゼ・シャルロッテ・フォン・ブランデンブルク
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ルイーゼ・シャルロッテ・フォン・ブランデンブルク Luise Charlotte von Brandenburg | |
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クールラント公妃 | |
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在位 | 1645年 - 1676年 |
出生 |
1617年9月13日 神聖ローマ帝国、 ブランデンブルク選帝侯領、ベルリン |
死去 |
1676年8月29日(58歳没) クールラント・ゼムガレン公国、ミタウ |
配偶者 | クールラント公ヤーコプ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ホーエンツォレルン家 |
父親 | ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルム |
母親 | エリーザベト・シャルロッテ・フォン・デア・プファルツ |
ルイーゼ・シャルロッテ・フォン・ブランデンブルク(Luise Charlotte von Brandenburg, 1617年9月13日 - 1676年8月29日)は、ドイツのブランデンブルク選帝侯家の公女で、クールラント公ヤーコプの妻。大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの姉。
生涯
[編集]ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムとその妻でプファルツ選帝侯フリードリヒ4世の娘であるエリーザベト・シャルロッテの間の第1子、長女として生まれた。1645年10月9日にケーニヒスベルクにおいて、クールラント公ヤーコプと結婚した。ケーニヒスベルク大学教授で詩人のジーモン・ダッハはこの婚礼に際し、公爵夫妻に頌詩を献呈している[1]。この結婚により、ヤーコプは義弟の大選帝侯と共同で、隣の大国ポーランド・リトアニア共和国に対する敵対政策を進めていくことを決心した[2]。
ルイーゼはクールラントの国政に大きな影響力を持ち、ミタウの彼女の宮廷はポーランド人、ロシア人、ブランデンブルク人、スウェーデン人などが集うバルト海海域の国際政治の舞台となった。ルイーゼは気立てが良く、賢く勇敢な女性であり、夫の成功を陰で支えた有能な公爵夫人だったと評価されている。
子女
[編集]夫との間に5男4女の9人の子女をもうけた。
- ルイーゼ・エリーザベト(1646年 - 1690年) - 1670年、ヘッセン=ホンブルク方伯フリードリヒ2世と結婚
- ラディスラウス・フリードリヒ(生没年不明、夭折)
- クリスティーナ(生没年不明、夭折)
- フリードリヒ・カジミール(1650年 - 1698年) - クールラント公
- シャルロッテ・マリー(1651年 - 1728年) - ヘルフォルト女子修道院長
- マリア・アマーリア(1653年 - 1711年) - 1673年、ヘッセン=カッセル方伯カールと結婚
- カール・ヤーコプ(1654年 - 1676年)
- フェルディナント(1655年 - 1737年) - クールラント公
- アレクサンダー(1658年 - 1686年)
参考文献
[編集]- August Seraphim: Eine Schwester des grossen Kurfürsten, Luise Charlotte, A. Duncker, Berlin, 1901 (Digitalisat)
- Otto von Mirbach: Briefe aus und nach Kurland während der Regierungsjahre des Herzogs Jakob: Mit Rückblicken in die Vorzeit, F. Lucas, 1846, S. 280