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リヴィウ - チョプ線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リヴィウ - チョプ線
基本情報
 ウクライナ
所在地 リヴィウ州ザカルパッチャ州
起点 リヴィウ駅
終点 チョプ駅
開業 1872年10月24日
路線諸元
路線距離 271.5 km
軌間 1520 mm / 1435 mm
電化区間 全区間
電化方式 3000 V(直流
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線
リヴィウ - ベスキッド線
STR
Rawa-Ruska, Kiwerzi, Sdolbuniw方面
BHF
0.0 リヴィウ
ABZgl+l
Tscherniwzi方面
ABZgr
リヴィウ - プシェムィシル線
ABZg+r
三角線
BHF
4.9 スクニリウ
BHF
10.4 オブロシュニー
ABZg+r
Sambir方面
BHF
15.5 フルンナ=ナヴァリヤ
HST
18.1 プストミティ
WBRÜCKE1
Stawtschenka川
HST
22.0 セメニヴカー
BHF
26.3 シュチレジュII
HST
28 シュチレジュI
HST
32.0 ドミトレ
HST
36.0 チェルカッシ=リヴィウスキー
HST
40.0 サドロシュニャ
BHF
45.7 ミコライウ=ドニエストロウスキー
hKRZWae
ドニスエトル川
BHF
51.8 ピサソチナ
ABZgl
Chorodlw方面
BHF
58.6 ビルチェ
HST
68.0 ウヘルスコア
ABZgr
Zagórz方面
KRZu
ストルイ - テルノピル線
ABZg+l
連結線
ABZg+r
ストルイ - スタラヴァ線
BHF
74.9 ストルイ
ABZgl
ストルイ - イヴァノ=フランキヴスク線
ABZg+l
BHF
83.1 コンユヒヴ
HST
88.0 ヒルネ
BHF
91.5 リユビンジ
HST
96.0 スティナヴァ=ニシュニャ
HST
100.0 ニシュニェ・シニョヴィドネ
hKRZWae
ストルイ川
hKRZWae
オピル川
BHF
103.5 ヴェルフニェ・シニョヴィドネ
BHF
112.3 スコレ
WBRÜCKE1
オピル川
WBRÜCKE1
オピル川
BHF
119.0 フレベニウ
WBRÜCKE1
オピル川
WBRÜCKE1
オピル川
WBRÜCKE1
オピル川
TUNNEL1
Tunnel
BHF
128.0 トゥフリャ
WBRÜCKE1
オピル川
WBRÜCKE1
オピル川
WBRÜCKE1
オピル川
BHF
138.0 スラヴスケー
HST
144.0 テルナヴカー
BHF
146.6 ラヴォチュネ
WBRÜCKE1
オピル川
TUNNEL1
Tunnel
WBRÜCKE1
オピル川
HST
150.0 オポレジュ
WBRÜCKE1
オピル川
BHF
154.0 ベスキッド
STR
チョプ方面
停車場・施設・接続路線
ベスキッド - チョプ線
STR
リヴィウ方面
BHF
155 ベスキッド
tSTRa
ベスキッドトンネル
tSTR+GRZq
リヴィウ州 / ザカルパッチャ州
tSTRe
旧オーストリア=ハンガリー国境
HST
160 1641 km
TUNNEL1
Tunnel
BHF
163 スコタルスケ
HST
166 フクリウイー
BHF
170 ヴォロヴェズ
WBRÜCKE1
ヴィチャ川
HST
174 ヤブルーニウ
WBRÜCKE1
ヴィチャ川
BHF
179 サンカ
WBRÜCKE1
ヴィチャ川
WBRÜCKE1
ヴィチャ川
HST
182 1662 km
WBRÜCKE1
ヴィチャ川
WBRÜCKE1
ヴィチァ川
BHF
188 ヴォーチー
WBRÜCKE1
ヴィチャ川
HST
192 サシウカ
HST
194 ネリピノ
BHF
198 スヴァリャヴァ
WBRÜCKE1
スヴァリャヴァ川
HST
203 ドラチノ
HST
205 パシカ
WBRÜCKE1
ラトリズヤ川
HST
208 カルパティ
BHF
212 チナディヨボ
HST
215 チナディヨボ
BHF
219 コルチノ
WBRÜCKE1
ラトリズヤ川
BHF
225 ムカチェヴォ
HST
227 ペレヴァロチュナ・バサ
ABZg+l
補助線
BHF
229 クリュチャルキ
BHF
236 ストラビチョヴォ
hKRZWae
Kanal
BHF
242 バルカソヴォ
HST
244 リウネ
WBRÜCKE1
Kanal
ABZgl
三角線
ABZg+l
バットヨボ - コロレヴォ線
BHF
250 バットヨボ
HST
253 スヴォボダ
ABZgl
エペルジェスケ方面(貨物線)
BHF
256 エセン
WBRÜCKE1
チャロンダ川
HST
259 エセン・プラットホルマ
ABZgl
ウジュホロド方面補助線
KRZo
ウジュホロド方面
HST
262 ミネラルネ
ABZgr+r
チョプ - スヤンキー線
BHF
266.5 チョプ
ABZgl
ニーレジハーザ - チョプ線
eHST
サラムーノヴァ (~1945)
ÜST
ソロモノヴォ渡り線
GRENZE
271.5 ウクライナ / スロバキア↓(1945~)
STR+l ABZgr
KDSTe STR
チェルナ(ティサ)貨物駅 軌道の変更(1520 mm / 1435 mm)
STR
コシツェ - チェルナ・ナド・チソウ線

リヴィウ - チョプ線ウクライナ語: Залізниця Львів - Чоп)は、ウクライナリヴィウとチョプを結ぶ、複線の幹線鉄道である。この路線はカルパティア山脈を貫通してスロバキアハンガリーの国境まで伸びる。チョプ駅でチェルナ(ティサ)方面スロバキア鉄道網ザーホニ方面ハンガリー鉄道網がこの路線と接続する。ムカチェヴォから標準軌の軌間も設置されている。この路線はウクライナ鉄道、特にリヴィウ鉄道(ウクライナ語: Львівська залізниця)によって運営されている。

リヴィウ駅
ストルイ駅
チョプ駅

歴史

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大公アルブレヒト鉄道およびオーストリア帝国鉄道時代

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レムベルク - ベスキッド区間はハンガリー王国とオーストリア帝国に属したガリツィア・ロドメリア王国の間の主要鉄道路線としてすでに計画された。レムベルクからストルイとスコールを経由してベスキッドのハンガリー国境に至る、鉄道の建設許可は、ポーランド侯爵のカリクストス・ポニンスキを代表としたコンソーシアムに、1871年10月22日に与えられた[1]。1872年2月17日に帝国特認大公アルブレヒト鉄道(ドイツ語: k. k. priv. Erzherzog Albrecht-Bahn)が株式会社として設立され、この路線の建設・運営権を引き受けた。レムベルグからストルイまでの全長73.5キロメートル鉄道の建設工事は、地形が建設に容易だったため、急速に進行されて、1873年10月16日に完了した[2]。しかし、ハンガリー方面の鉄道が建設されなくて、ガリツィア王国側には建設資金がなかったので、ベスキッドからハンガリー方面の鉄道建設は進まなかった[3]

1887年4月5日にストルイ - ベスキッド区間(全長79.3 km)の建設はオーストリア帝国鉄道が完了した。ガリツィア王国とハンガリー王国の国境に、カルパティア山脈尾根の障壁を克服するためにベスキッド・トンネルが建設された[4]。開通当時にこの路線は標準軌で建設された。1891年に大公アルブレヒト鉄道はオーストリア帝国鉄道に引き受けられた。

ハンガリー北東鉄道およびハンガリー国鉄時代

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ハンガリー王国側の区間は、私設鉄道ハンガリー北東鉄道(ハンガリー語: Magyar Északkeleti Vasút, MÉKV)の主導で建設された。1872年10月24日にチャプ(今のチョプ)- バーテュー(今のバティヨヴォー)区間およびバーテュー - キラーリハーザ(今のコロレヴォー)区間が、同年12月4日にはバーテュー - ムンカーチ(今のムンカーサ)区間が開通された[5][6]。ハンガリー北東部の貨物輸送はとても重要であったので、運賃統合の必要性から1890年に北東鉄道は結局国有化された[7]

ポーランド区間とチェコスロバキア区間の分割

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第一次世界大戦の終戦後、主要部分のリヴィウ - ベスキッド区間はポーランドの領土に入り、当時ポーランド国鉄によって運営されていた。以前のハンガリー王国の区間はチェコスロバキアに編入されて、チェコスロバキア鉄道によって運営された[8]

ハンガリーは、第一次ウィーン仲裁の結果、カルパティア・ウクライナの南部を占領したので、残りのコルチノとポーランドの国境区間は他の路線網から分離され、運営できなくなった。カルパティア・ウクライナ全体が鉄道で連結された後、ハンガリー国鉄が旧チェコスロバキア路線の運営権を引き受けた。

1939年の第二次世界大戦の開始直後にソビエト連邦ポーランド東部を占領したので、ポーランドの部分もソビエト連邦鉄道の所有となり、すぐに線路の軌間が変更された。しかし1941年の独ソ戦の後に軌間が元に戻されて、この路線はドイツ国営鉄道傘下の東部鉄道に属することとなった[9]

第二次世界大戦の終戦後

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第二次世界大戦の終結により、ポーランド東部とカルパティア・ウクライナの両方がソビエト連邦に併合され、カルパティア山脈の国境統制は廃止された。ソビエト鉄道の主導下ですべての標準軌間の線路が広軌に転換されて、その以来、線路は広軌になっている。

ただし、スロバキアからルーマニアまで貨物輸送を妨げないために、チョプとバトヨウォ(ルーマニアのハルメウまで)の間に、広軌と標準軌を合わせて、4本の線路が設置されている。

参考文献

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  • Josef Gonda (1898) (ドイツ語). Das Eisenbahnwesen in Ungarn seit 1867. Geschichte der Eisenbahnen der Oesterreichisch-Ungarischen Monarchie. Band 3. Wien, Teschen, Leipzig: Karl Prochaska. pp. 355–428. https://archive.org/details/geschichtedereis03aust/page/n5/mode/2up 
  • Ignaz Konta (1898) (ドイツ語). Geschichte der Eisenbahnen Oesterreichs vom Jahre 1867 bis zur Gegenwart. Geschichte der Eisenbahnen der Oesterreichisch-Ungarischen Monarchie. Band 1.2. Wien, Teschen, Leipzig: Karl Prochaska. pp. 1–426. https://archive.org/details/geschichtedereis12aust/page/n5/mode/2up 
  • Bernhard Neuner (2002) (ドイツ語). Bibliographie der österreichischen Eisenbahnen von den Anfängen bis 1918. Wien: Walter Drews Verlag. ISBN 3-901949-00-3 

外部リンク

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注釈・出典

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  1. ^ RGBl 1871/135 In: Reichsgesetzblatt für die im Reichsrathe vertretenen Königreiche und Länder, Jahrgang 1871, pp. 355–368. (Online bei ANNO):オーストリア国立図書館提供のオンライン文書。
  2. ^ I. Konta: 1898, Band 1.2: pp. 136, 137
  3. ^ I. Konta: 1898, Band 1.2: pp. 138, 139, 171
  4. ^ I. Konta: 1898. Band 1.2: pp. 350, 351
  5. ^ História Železnic 1867-1873”. zsr.sk. Železnice Slovenskej Republiky. 2010年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年12月20日閲覧。
  6. ^ J. Gonda, 1898, Band 3: p. 384
  7. ^ J. Gonda, 1898, Band 3: pp. 408, 409
  8. ^ Železnice na Slovensku a Podkarpatské Rusi 1918 - 1945” (チェコ語). parostroj,net. OstraMo. 2022年3月30日閲覧。
  9. ^ Deutsches Kursbuch - Jahresfahrplan 1944/45 - Teil 6 (KBS 501 - 536)” (ドイツ語). pkjs.de. 2022年3月28日閲覧。534fを参考。