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リヴィウ - ブロディ線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リヴィウ - ブロディ線
基本情報
 ウクライナ
所在地 リヴィウ州
起点 リヴィウ駅
終点 ブロディ駅
路線諸元
軌間 1520 mm(広軌
電化区間 全区間
電化方式 25 kV / 50 Hz(交流
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線
STR
von Tscherniwzi, Przemyśl und Sambir
BHF
リヴィウ
ABZgl
nach Rawa-Ruska
eABZg+l
BHF
ピドサムチェ
ABZgl
nach Kiwerzi
ABZg+l
リヴィウ環状線
BHF
14.9 ピドビルジ
WBRÜCKE1
ポルトヴァ川
BHF
23.5 ボルシュチョヴィチ
HST
31.2 ポロニチ
BHF
37.2 サドヴィリャ
HST
40.9 ポルトヴァ
WBRÜCKE1
ポルトヴァ川
HST
45.1 クトコル
WBRÜCKE1
Holohirkaホロヒルカ川
BHF
50.5 クラスネ
ABZgr
nach Ternopil und Chmelnyzkyj
hKRZWae
ブク川
HST
56.3 ペトリチ
HST
60.9 サコマリア
BHF
66.8 オシディウ・オレスコ
HST
72.9 クティー
BHF
79.9 サボロットジ
HST
86.8 ポニコヴジャ
BHF
92.8 ブロディ
STR+GRZq
ガリツィアとロシアの旧国境線
WBRÜCKE1
スロニヴカ川
BHF
103 ラディヴィリウ
STR
スドルブニウ方面

キロメートル数は1944年の基準

リヴィウ - ブロディ線(ウクライナ語: Залізнична Львів–Броди)はウクライナで複線の電化された、幹線鉄道の一つで、西ウクライナの中心都市リヴィウと北東方向にブロディを結ぶ。すべての区間で1520 mmの広軌が採択されている。ウクライナ鉄道、特にリヴィウ鉄道(ウクライナ語: Львівська залізниця)がこの路線の運営を担当している。

ブロディ駅

歴史

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ガリツィア・カール・ルートヴィヒ鉄道

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1846年すでにクラカウブローディの間に鉄道建設が計画されたが、政治的な不安定のため実行されなかった[1]。レンベルグ - ブローディ区間は1869年7月12日に帝国特認ガリツィア・カール・ルートヴィヒ鉄道(ドイツ語: k.k. priv. Galizische Carl Ludwig-Bahn, CLB)により開通された[2]。当時オーストリアに属したガリツィアの建設許可は、1867年5月15日にCLBに与えられた[3]

オーストリアとロシアの国境では単線の鉄道連結が1873年8月28日に実現された。標準軌1435 mmおよびロシア広軌1520 mmの線路が当時に両国で最も近い国境駅まで伸びていた[2]

ポーランド国鉄と占領国の鉄道

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第一次世界大戦の終結後、この路線はポーランド国鉄に引き受けられた。ロシアの広軌路線はポーランド国内で標準軌に改軌されて、1939年当時にこの路線とクラスネ - スドルブニウ(ポーランド語: Zdołbunów)区間は一つの時刻表番号で統合された[4]

1939年の第二次世界大戦の開始直後にソビエト連邦ポーランド東部を占領したことで、この路線はソビエト連邦鉄道(ロシア語: Советские железные дороги, СЖД)の所有となった。線路のゲージ変更はロシアの広軌(1520 mm)ですぐに開始された。しかし、1941年にドイツがソビエト連邦を攻撃して、この路線の軌間は1435 mmとして戻された。当時にこの路線はドイツ国営鉄道傘下の東部鉄道(ドイツ語: Ostbahn)に割り当てられた[5]

ソ連鉄道とウクライナ鉄道

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戦争の終結後、この路線はソ連鉄道によって取り戻されて、全体の区間は広軌に改修された。1991年にこの路線はウクライナ鉄道の路線網に組み入られた。

参考文献

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  • Bernhard Neuner (2002) (ドイツ語). Bibliographie der österreichischen Eisenbahnen von den Anfängen bis 1918. Band 2. Wien: Walter Drew Verlag. ISBN 3-901949-00-3 
  • Hermann Strach (1898) (ドイツ語). Geschichte der Eisenbahnen Oesterreichisch-Ungarns von den ersten Anfängen bis zum Jahre 1867. Geschichte der Eisenbahnen der Oesterreichisch-Ungarischen Monarchie. Band 1.1. Wien / Teschen / Leipzig: Karl Prochaska. pp. 73–503. https://archive.org/details/geschichtedereis11aust/page/n7/mode/2up 
  • Ignaz Konta (1898) (ドイツ語). Geschichte der Eisenbahnen Oesterreichs vom Jahre 1867 bis zur Gegenwart. Geschichte der Eisenbahnen der Oesterreichisch-Ungarischen Monarchie. Band 1.2. Wien / Teschen / Leipzig: Karl Prochaska. pp. 1–426. https://archive.org/details/geschichtedereis12aust/page/n5/mode/2up 

外部リンク

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注釈・出典

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  1. ^ H. Strach: 1898, Band 1.1, p. 298
  2. ^ a b I. Konta: 1898, Band 1.2, pp. 31, 32
  3. ^ Reichsgesetzblatt von 1867, Nr. 88, Seite 189
  4. ^ Rozkład Polska, lato 1939 - Tab. 405: Lwów – Krasne – Zdołbunów
  5. ^ Deutsches Kursbuch - Jahresfahrplan 1944/45 - Teil 6 (KBS 501 - 536)” (ドイツ語). pkjs.de. 2022年4月4日閲覧。