リチャード・エリオット (1609年没)
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リチャード・エリオット Richard Eliot Richard Elliot | |
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生年月日 | 1546年ごろ |
没年月日 | 1609年6月22日 |
所属政党 | 無所属 |
配偶者 | ブリジット・カーズウェル |
子女 | 長男・ジョン |
親族 |
孫・ジョン・エリオット(庶民院議員) 孫・エドワード・エリオット(庶民院議員) 曽孫・ダニエル・エリオット(庶民院議員) 曽孫・リチャード・エリオット(庶民院議員) 曽孫・エドワード・エリオット(庶民院議員) 曽孫・リチャード・エリオット(庶民院議員) |
在任期間 | 1572年 - 1581年 |
リチャード・エリオット(英語: Richard EliotまたはRichard Elliot[1]、1546年ごろ – 1609年6月22日)は、イングランド王国の庶民院議員。チャールズ1世の治世での野党活動で知られるサー・ジョン・エリオットの父[2]。
生涯
[編集]トマス・エリオット(Thomas Eliot、エドワード・エリオットの三男[2])とジョーン(Joan、旧姓アイヴァーブルック(Ivorbrooke)、ジョン・アイヴァーブルックの娘)の長男として、1546年ごろに生まれた[1]。
1572年4月、セント・ジャーマンズの領主(lord of the manor)である伯父ジョン(1503年以前 – 1577年4月29日[2])の支持を受けてセント・ジャーマンズ選挙区で庶民院議員に当選した[1][3]。1577年4月29日に伯父ジョンが死去すると、その遺産を継承した[1]。1596年に伯父の未亡人グレース(Grace、旧姓フィッツ(Fitz)、ジョン・フィッツの娘)が死去すると[2]、ポート・エリオットの領地も継承した[1]。
晩年は自身の死に備えて息子の後見人選びを進め、死去直前には息子の結婚を手配した[1]。1609年6月22日に死去、24日にセント・ジャーマンズで埋葬された[2]。
家族
[編集]1577年4月25日、ブリジット・カーズウェル(Bridget Carswell、1560年2月24日洗礼 – 1618年3月5日埋葬、ニコラス・カーズウェルの娘)と結婚、1男1女をもうけた[2]。
- ジョン(1592年4月11日 – 1632年11月28日) - 政治家。チャールズ1世の治世での野党活動で知られ、ロンドン塔で獄死した。ラディグンド・ジェディ(Radigund Gedy/Radigund Gedie、1628年6月13日埋葬、リチャード・ジェディの娘)と結婚、子供あり[2]
- メアリー(1594年1月17日洗礼 – 1594年2月18日埋葬[2])
出典
[編集]- ^ a b c d e f W.J.J. (1981). "ELLIOT, Richard (c.1546-1609), of Cuddenbeak and Port Eliot, St. Germans, Cornw.". In Hasler, P. W. (ed.). The House of Commons 1558-1603 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年4月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Crisp, Frederick Arthur, ed. (1919). Visitation of England and Wales (英語). Vol. 13. p. 122.
- ^ R.C.G.; Hasler, P. W. (1981). "St. Germans". In Hasler, P. W. (ed.). The House of Commons 1558-1603 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年4月25日閲覧。
イングランド議会 (en) | ||
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先代 チャールズ・グレムハム トマス・コスグレイヴ |
庶民院議員(セント・ジャーマンズ選挙区選出) 1572年 – 1581年 同職:トマス・エイシュ |
次代 ジョージ・ケアルー ヘンリー・デニー |