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ジョン・エリオット (1612年生の政治家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジョン・エリオット英語: John Eliot1612年10月18日洗礼 – 1685年3月25日埋葬)は、イングランド王国の政治家、コーンウォールの地主。イングランド王チャールズ1世に対する野党活動で知られるサー・ジョン・エリオットの長男であり、庶民院議員を3期務めたが、議会活動は少なかった[1]

生涯

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生い立ち

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サー・ジョン・エリオットと妻ラディグンド(Radigund、旧姓ジェディ(Gedy/Gedie)、1628年6月13日埋葬、リチャード・ジェディの娘)の長男として生まれ、1612年10月18日に洗礼を受けた[2]。1628年までにティヴァートン英語版グラマースクールブランデルズ・スクール英語版)に入学、1629年まで通った[1]。1629年から1631年までオックスフォード大学リンカーン・カレッジで教育を受け、1631年から1632年までフランス王国を旅した[1]。1632年に父が死去すると、年収1,500ポンドの得られる地所を継承した[1]

清教徒革命期

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1640年の短期議会セント・ジャーマンズ選挙区英語版の代表として議員を務めた[1]イングランド内戦期とイングランド共和国期では1645年6月10日から1655年までデヴォン海軍次官英語版[3]、1647年から1653年までコーンウォール治安判事を、1655年から1662年までロストウィシエル英語版長老議員英語版を務めるなど、主にコーンウォールの地方官職を歴任した[1]。1656年にコーンウォールの治安判事を再任、1670年まで務めた[1]。また、イングランド内戦で地所を王党派の軍勢に蹂躙され、長期議会は1647年にエリオットへの賠償金7,000ポンドを可決した[1]

王政復古以降

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イングランド王政復古の後、1660年仮議会の選挙でコーンウォール選挙区英語版から出馬したが、得票数4位(最下位)で落選した[4]。一方、自身の懐中選挙区であるセント・ジャーマンズ選挙区では無投票で当選、1661年イングランド総選挙でも再選した[5]。また、1660年3月13日から10月までデヴォン海軍次官を務めた[1][3]

議会では選挙および特権委員会(Committee of Elections and Privileges)、レジサイド処刑委員会(1662年)、第二次英蘭戦争での敗北に関する調査委員会(1667年)への任命記録が残っているが、あまり活動的ではなかった[1]1679年イングランド総選挙でセント・ジャーマンズ選挙区の2議席に息子ダニエルリチャードを指名し、自身は議員を退任した[5]

1685年に死去、同年3月25日にセント・ジャーマンズ英語版で埋葬された[2]

家族

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1632年11月28日、オナー・ノートン(Honor Norton、1652年11月1日埋葬、サー・ダニエル・ノートン英語版の娘)と結婚、5男5女をもうけた[2]。妻の名前はオノラ(Honora)とも[1]。オナーは3,000ポンドの持参金をもたらしたが、後見裁判所英語版による許可のない結婚だったため、エリオットは罰金刑に処された[1]

  • ブリジット(Bridget、1638年2月1日洗礼 – ?) - 1665年7月13日、ウィリアム・サヴェリー(William Savery)と結婚[2]
  • ジョン(1641年2月2日没[2]
  • エドワード(1639年3月28日洗礼 – 1639年3月29日埋葬[2]
  • ダグラス(1640年11月23日洗礼 – ?) - 1663年2月13日以降、スパーク氏(Sparke)と結婚[2]
  • ラディグンド(Radigund、1641年11月27日洗礼 – 1694年) - 1675年5月25日、エドワード・ワイズ英語版(1632年 – 1675年11月17日)と結婚[2]
  • オナー(1692年9月21日埋葬) - 1662年2月15日、ジョン・スペコット(1641年ごろ – 1678年1月10日埋葬)と結婚、子供あり[2]
  • スーザン(1648年4月27日洗礼 – 1683年7月6日埋葬) - 1676年7月13日、第3代準男爵サー・ヘンリー・ヘレ(1677年4月没)と結婚[2]
  • ダニエル(1649年ごろ – 1702年10月11日) - 庶民院議員。1685年7月13日、キャサリン・フレミング(Katharine Fleming、1660年ごろ – 1687年12月20日埋葬)と結婚、1女をもうけた[2]
  • エリザベス(1650年6月6日洗礼 – 1675年10月18日埋葬[2]
  • リチャード(1652年4月22日洗礼 – 1685年12月22日埋葬) - 庶民院議員[2]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l Helms, M. W.; Watson, Paula (1983). "ELIOT, John (1612-85), of Port Eliot, St. Germans, Cornw.". In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年4月11日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m Crisp, Frederick Arthur, ed. (1919). Visitation of England and Wales (英語). Vol. 13. pp. 122–126.
  3. ^ a b Sainty, John Christopher (June 2003). "Vice Admirals of the Coasts 1558–1660". Institute of Historical Research (英語). 2007年9月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月11日閲覧
  4. ^ Watson, Paula; Henning, Basil Duke (1983). "Cornwall". In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年4月11日閲覧
  5. ^ a b Watson, Paula (1983). "St. Germans". In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年4月11日閲覧
イングランド議会 (en
先代
トマス・コットン英語版
ベンジャミン・ヴァレンタイン英語版
庶民院議員(セント・ジャーマンズ選挙区英語版選出)
1640年
同職:ウィリアム・スコーエン英語版
次代
ベンジャミン・ヴァレンタイン英語版
ジョン・モイル
空位
ランプ議会で代表なし
最後の在位者
ジョン・グランヴィル英語版
ジョン・セント・オービン
庶民院議員(セント・ジャーマンズ選挙区英語版選出)
1660年1679年
同職:リチャード・ナイトリー英語版
エドワード・エリオット 1661年 – 1679年
次代
ダニエル・エリオット
リチャード・エリオット
軍職
先代
ジョン・ワドン英語版
デヴォン海軍次官英語版
1645年 – 1653年
次代
ヘンリー・ハットセル英語版
先代
ヘンリー・ハットセル英語版
デヴォン海軍次官英語版
1660年
次代
サー・ヒュー・ポラード準男爵英語版