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ラークシャスブヴァンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラークシャスブヴァンの戦い
1763年8月10日
場所アウランガーバード近郊ラークシャスブヴアン
結果 マラーター側の勝利
衝突した勢力
マラーター王国 ニザーム王国
指揮官
マーダヴ・ラーオ
ラグナート・ラーオ
ニザーム・アリー・ハーン
ヴィッタル・スンダル  
戦力
不明 不明

ラークシャスブヴァンの戦いマラーティー語:राक्षसभुवनची लढाई, 英語:Battle of Rakshasbhuvan)は、1763年8月10日インドラークシャスブヴァンにおいて、マラーター王国ニザーム王国との間で行われた戦闘。

戦闘に至る経過

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1761年1月マラーター同盟軍はアフガン勢力ドゥッラーニー朝パーニーパトの地で敗れ、大打撃を被り、その半年後にマラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオが死亡した。

その後、王国の宰相位は息子のマーダヴ・ラーオが継承したが、バーラージーの弟ラグナート・ラーオは宰相位を要求したことから、両者の間に対立が発生した。マラーター王国と長年対立してきたデカン地方ニザーム王国はこれに介入し、問題は複雑化した。

同年11月にラグナート・ラーオは降伏したが、マラーター王国とニザーム王国との対立は続き、1763年3月7日にマーダヴ・ラーオはニザーム王国への遠征を行った。軍勢にはラグナート・ラーオをはじめ、ヴィサージー・トリンバクヤシュワント・ラーオ・ヴァブレーなどが付き従った。

一方、ニザーム軍もこれに迎撃する構えを見せ、ヴィッタル・スンダルを主将に、イスマーイール・ハーン・パンニーラグージー・ジャーダヴ・ラーオニンバールカル・カルデーカルを指揮官とする軍隊を派遣した。また、軍勢にはシャルル・ジョゼフ・パティシエ・ド・ビュシーによって率いられたフランス軍もいた。

戦闘とその後の経過

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8月10日、マラーター軍はニザーム軍はアウランガーバード近郊ラークシャスブヴァンで激突した。なお、ニザーム側にはマラーター側を裏切った部隊の一部が味方していた。この日の戦いはマラーター軍の勝利に終わり、ニザーム軍の主将であるヴィッタル・スンダルが死亡した。

のち、両者はアウランガーバードで講和を締結し、ニザーム王国は講和の条件としてマラーター王国に82ラク(820万ルピー)の歳入を生み出すデカンの地域を割譲した。 講和成立後、マーダヴ・ラーオはプネーに帰還した[1]

なお、このとき割譲された領土は1818年にマラーター王国が第三次マラーター戦争に敗れたのち、イギリスによってニザームへと返還された。

脚注

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参考文献

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  • 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。 
  • ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。 

関連項目

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