ラークシャスブヴァンの戦い
ラークシャスブヴァンの戦い | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
マラーター王国 | ニザーム王国 | ||||||
指揮官 | |||||||
マーダヴ・ラーオ ラグナート・ラーオ |
ニザーム・アリー・ハーン ヴィッタル・スンダル † | ||||||
戦力 | |||||||
不明 | 不明 |
ラークシャスブヴァンの戦い(マラーティー語:राक्षसभुवनची लढाई, 英語:Battle of Rakshasbhuvan)は、1763年8月10日にインドのラークシャスブヴァンにおいて、マラーター王国とニザーム王国との間で行われた戦闘。
戦闘に至る経過
[編集]1761年1月、マラーター同盟軍はアフガン勢力ドゥッラーニー朝にパーニーパトの地で敗れ、大打撃を被り、その半年後にマラーター王国宰相バーラージー・バージー・ラーオが死亡した。
その後、王国の宰相位は息子のマーダヴ・ラーオが継承したが、バーラージーの弟ラグナート・ラーオは宰相位を要求したことから、両者の間に対立が発生した。マラーター王国と長年対立してきたデカン地方のニザーム王国はこれに介入し、問題は複雑化した。
同年11月にラグナート・ラーオは降伏したが、マラーター王国とニザーム王国との対立は続き、1763年3月7日にマーダヴ・ラーオはニザーム王国への遠征を行った。軍勢にはラグナート・ラーオをはじめ、ヴィサージー・トリンバク、ヤシュワント・ラーオ・ヴァブレーなどが付き従った。
一方、ニザーム軍もこれに迎撃する構えを見せ、ヴィッタル・スンダルを主将に、イスマーイール・ハーン・パンニー、ラグージー・ジャーダヴ・ラーオ、ニンバールカル・カルデーカルを指揮官とする軍隊を派遣した。また、軍勢にはシャルル・ジョゼフ・パティシエ・ド・ビュシーによって率いられたフランス軍もいた。
戦闘とその後の経過
[編集]8月10日、マラーター軍はニザーム軍はアウランガーバード近郊ラークシャスブヴァンで激突した。なお、ニザーム側にはマラーター側を裏切った部隊の一部が味方していた。この日の戦いはマラーター軍の勝利に終わり、ニザーム軍の主将であるヴィッタル・スンダルが死亡した。
のち、両者はアウランガーバードで講和を締結し、ニザーム王国は講和の条件としてマラーター王国に82ラク(820万ルピー)の歳入を生み出すデカンの地域を割譲した。 講和成立後、マーダヴ・ラーオはプネーに帰還した[1]
なお、このとき割譲された領土は1818年にマラーター王国が第三次マラーター戦争に敗れたのち、イギリスによってニザームへと返還された。