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マーダヴ・ラーオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マーダヴ・ラーオ・バッラール
Madhav Rao Ballal
マラーター王国宰相
マーダヴ・ラーオ
在位 1761年6月23日 - 1772年11月18日
戴冠式 1761年6月23日
別号 ペーシュワー

出生 1745年2月14日
サヴァヌール
死去 1772年11月18日
プネーシャニワール・ワーダー
配偶者 ラーマ・バーイー
王朝 ペーシュワー朝
父親 バーラージー・バージー・ラーオ
母親 パールヴァティー・バーイー
宗教 ヒンドゥー教
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マーダヴ・ラーオマラーティー語:माधवराव पेशवे, 英語:Madhav Rao, 1745年2月14日 - 1772年11月18日)は、インドデカン地方マラーター王国の世襲における第4代宰相(ペーシュワー、在位:1761年 - 1772年)。マラーター同盟の盟主でもある。マーダヴ・ラーオ1世(Madhav Rao I)、マーダヴ・ラーオ・バッラール(Madhav Rao Ballal)とも呼ばれる。

彼はマラーター同盟が分裂し、マラーター王国が危機にさらされるなか、近隣のニザーム王国マイソール王国と戦って勝利した。さらには遠くデリーにまで遠征し、マラーターの権威を保つことに成功している。

生涯

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宰相就任まで

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バーラージー・バージー・ラーオ

1745年2月14日、マラーター王国の宰相バーラージー・バージー・ラーオの息子としてサヴァヌールで生まれた。

本来、マーダヴ・ラーオはマラーター王国の宰相位を継ぐ立場にある人物ではなかった。だが、1761年1月14日第三次パーニーパトの戦いで兄ヴィシュヴァース・ラーオアフガン軍に殺されたため、急遽として後継者の地位が回ってきた[1]

同年6月23日、父バーラージー・バージー・ラーオがパーニーパットにおける敗戦のショックで死亡したため、彼は王国の宰相となった[1]

マラーター同盟の分裂と宰相府の内乱

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ラグナート・ラーオ

パーニーパットの敗戦により、マラーター同盟の結束は崩壊し、分裂状態に追いやられた。マラーター諸侯(サルダール)は事実上同盟から独立し、マラーター王国のほかに、グワーリオールシンディア家インドールホールカル家バローダガーイクワード家ナーグプルボーンスレー家という4つの勢力が割拠するところとなった。

そのうえ、前宰相バーラージー・バージー・ラーオの弟ラグナート・ラーオが宰相位の継承権を主張し、宰相府は混乱した[1]。宰相マーダヴ・ラーオとラグナート・ラーオの不和は続き、1762年8月22日にラグナート・ラーオがプネーからヴァドガーオンに去り、内乱がはじまった。

ラグナート・ラーオはニザーム王国から援助を受けていたが、マーダヴ・ラーオはこの内乱における戦いに勝利し、同年11月12日にラグナート・ラーオは降伏した。

ニザーム王国との戦い

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マラーター同盟の版図(黄色、1765年

また、祖父と父の時代に抑えられていたデカン地方のニザーム王国は、マラーター同盟の分裂を見逃さなかった。

ニザーム王国はマーダヴ・ラーオとラグナート・ラーオの争いに介入し、ラグナート・ラーオが降伏したのち、マラーター王国の領土に攻め入った[1]

ラグナート・ラーオはニザーム王国と親善を図ろうとしたが無駄で、マーダヴ・ラーオは事態の深刻さを見て、1763年3月7日にニザーム王国への遠征を行った。

そして、同年8月10日にマーダヴ・ラーオの軍はニザーム軍をアウランガーバード近郊に破った(ラクシャスブヴァンの戦い)。のち、ニザーム王国はマラーター王国に82ラク(820万ルピー)を生み出すデカンの地域を割譲し、マーダヴ・ラーオはプネーに帰還した[2]

マイソール王国との戦い

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ハイダル・アリー

1761年のパーニーパットの敗戦後、マラーター王国の監視が南インドに及ばなくなった結果、同年にカルナータカ地方マイソール王国ではムスリム軍人ハイダル・アリーが王国の実権を掌握した(マイソール・スルターン朝[1][3]

ハイダル・アリーは強大な支配者で、マイソール王国の領土拡大をめざし、1763年にはケラディ・ナーヤカ朝を滅ぼし、南インドの制圧に乗り出した。1764年1月にハイダル・アリーがトゥンガバドラー川を越えてマラーター領に侵攻したため、マーダヴ・ラーオはこの動きを見て、同年2月に大軍を率いてマイソール王国へと遠征に向かった[1][4]

だが、この遠征に援助としてきていたラグナート・ラーオは単独でマイソール王国と講和を結んだため、1765年3月30日にマーダヴ・ラーオは和議を結び、貢納金を取って引き上げた[4]

しかし、1766年11月にマーダヴ・ラーオは再びマイソール王国へ遠征を行い、1767年3月4日にはマドゥギリを攻略し、5月に帰還した[4]

この2度にわたる遠征により、マイソール王国の勢力拡大に一応の歯止めをかけることができた。

ナーグプルへの懲罰

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マーダヴ・ラーオはまた、中央インドに勢力を広げていたナーグプルのボーンスレー家に対しても遠征を行った[2]

それはマーダヴ・ラーオがマイソール王国との戦争終了後、1769年3月にその当主ジャーノージー・ボーンスレーが王族ボーンスレー家の出身であることを理由に、マラーター王を公然と称したからだった[2]

そのため、マーダヴ・ラーオはマラーター王権を無視したこれを許さず、同年にジャーノージー・ボーンスレーの支配するナーグプルへ遠征軍を送り、この遠征は二年間続いた[2]

ラグナート・ラーオの逮捕

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ラグナート・ラーオは領土拡大のために北インドに遠征していたが、それはうまくいかなかった。ラグナート・ラーオはプネーに帰還したのち、妻のアーナンディー・バーイーや側近の将軍らに誘惑され、再びマーダヴ・ラーオの打倒を考えるようになった。

しかし、マーダヴ・ラーオはこの企みに気づき、1768年6月10日にラグナート・ラーオをシャニワール・ワーダーで逮捕した。いずれにせよ、この一件でマーダヴ・ラーオとラグナート・ラーオの関係は再び悪化した。

マラーター同盟の勢力回復

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マハーダージー・シンディア

1769年末以降、マーダヴ・ラーオはデリーに向けて5万人の兵をもって向かい、この遠征にはシンディア家の当主マハーダージー・シンディアも途中から加わった[5]。約一年間を通して行われたこの遠征で、北インド一帯のアフガン勢力に攻撃が行われ、その制圧に成功した[5]

この遠征の結果、1771年にマハーダージー・シンディアはデリーを占拠することができ[5][6][7]、翌1772年にはムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世をデリーに迎え入れた[5]

このほかにも、シンディア家やホールカル家と協力し、ラージプート諸王国やバーラトプル王国といったジャート勢力、アフガン系ローヒラー族さえも破った。

マーダヴ・ラーオはマラーター王国最後の偉大な宰相であった。彼はその若さにもかかわらず、父や祖父と同じように各地を破り、パーニーパットの敗戦による影響にも負けずに同盟の勢力を回復した。

晩年と死

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マーダヴ・ラーオ像(プネー
マーダヴ・ラーオの横でサティーするラーマ・バーイー

だが、マーダヴ・ラーオはもともと病弱な面があり、1770年ごろからすでに結核の病魔に体をむしばまれていたという。それは取り返しのつかないところまで来ていた。

マーダヴ・ラーオはマイソール王国のハイダル・アリーが強大となるのを見て、1770年1月に遠征軍をカルナータカ地方に派遣し[4]6月に自身も遠征した。この遠征はかなり上々だったが、マーダヴ・ラーオの病状が悪化したため、同年12月に彼は帰還した。

1771年3月、遠征軍はマイソール王国の首都シュリーランガパトナを包囲したが、マーダヴ・ラーオの病状悪化もあって、1772年6月には講和条約を結んで撤退した[4]

同年10月6日、ラグナート・ラーオが軟禁されていたシャニワール・ワーダーの自宅から逃げたが、再び逮捕された。このとき、マーダヴ・ラーオの病状は深刻で、このような事件をかまうところではなかった。

そして、同年11月28日、宰相マーダヴ・ラーオは腸結核より死亡した[5]。統治11年目にして、まだ27歳だった。同日行われた葬儀では、妃のラーマ・バーイーが寡婦殉死(サティー)した。

のち、イギリス東インド会社の職員で歴史家ジェームズ・グラント・ダフは、マーダヴ・ラーオの死に関してこう語っている。

「そして、パーニーパトの平野(第三次パーニーパトの戦いにおける敗戦)は、この優れた王子(マーダヴ・ラーオ)の早すぎる死よりもマラーター帝国に致命的なものではなかった」

脚注

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  1. ^ a b c d e f 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p219
  2. ^ a b c d NASIK DISTRICT GAZETTEERs
  3. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p40
  4. ^ a b c d e 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p42
  5. ^ a b c d e 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p220
  6. ^ Maratha Chronicles Peshwas (Part 4) A Strife Within
  7. ^ Medieval India

参考文献

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  • 小谷汪之編『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年
  • 辛島昇編『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』山川出版社、2007年
  • ビパン・チャンドラ著、栗原利江訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年

関連項目

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