ラルフ・バーコヴィッツ
ラルフ・バーコヴィッツ (Ralph Berkowitz、1910年9月5日 - 2011年8月2日)[1] はアメリカの作曲家、クラシックミュージシャン、画家[2]。
経歴
[編集]ラルフ・バーコヴィッツはニューヨーク市ブルックリン区で、ルーマニア・ブカレストから移住してきたユダヤ人夫婦、マチルダとウィリアムの間に生まれた。父親は、若い彼の音楽的教養と経験を形成することを支援した[3]。1927年、フィラデルフィアのカーティス研究所に入学し、後に教職員になった[4]。1940年、グレゴール・ピアティゴルスキーの伴奏者となり、1976年にチェリストを引退するまで継続した。他の共演者としては、ジャン・ピアース(テノール歌手)、フェリックス・サモンド(チェリスト)、ジョルジェ・エネスク(バイオリニスト、作曲家)などが挙げられる。彼はピアティゴルスキーや、バイオリニストのエウディーネ・シャピロをはじめとする多くの人たちと幅広く録音を行った。
1946年から1951年まで、タングルウッドの地でセルゲイ・クーセヴィツキーのエグゼクティブ・アシスタントを務めた後、バークシャー音楽センターの学部長に就任し、1961年まで務めた。彼は学部長として、アーロン・コープランド、レナード・バーンスタインを含む多くの教員を取り仕切った。この間の有名な学生には、ズービン・メータ、ロリン・マゼール、クラウディオ・アバドなどがいる。また、セルゲイ・クーセヴィツキーの死後、ボストン交響楽団のマネージャーであるトッド・ペリーと共に、タングルウッド音楽祭を主催した。
彼はアレンジャーや作曲家として広く作品を出版した。歌手とオーケストラのための曲A Telephone Callは最も有名な作品である。
1961年にニューメキシコ州アルバカーキに移り、2011年に亡くなるまで住み続けた。彼が初めてアルバカーキに来たのは1940年のことで、The June Music Festivalと呼ばれる室内楽の祭典にゲスト・アーティストとして出演するためだった。その後1980年代まで、祭典のアーティストとして活躍し続けた。
ニューメキシコに移住してきてから1968年まで、ニューメキシコ大学のPopejoy Hallに移籍し、アルバカーキ・シビック・オーケストラ(ニューメキシコ交響楽団)のマネージャーとなった。
2002年、彼はダロン・ハーゲンに、バーコヴィッツとハーゲンの名前に由来するピッチをテーマにしたピアノ・バリエーションのセットである、最も知的に厳格な作品を作曲するよう依頼した。この作品はカール・フィッシャー (楽譜出版社)から入手できる。彼は2010年[5]9月に100歳を迎え、翌年の8月に亡くなった。
ディスコグラフィ
[編集]- "RCA Red Seal Century - Soloists & Conductors", 2 CD / RCA Records / 2001-10-23
- "Stravinsky: Petroushka Suite; Toch: Violin Sonata", 1 CD / Crystal Records / 1998-01-02 [6]
参考文献
[編集]- ^ Ralph Berkowitz's obituary
- ^ https://archive.org/stream/deantanglewood00berkrich/deantanglewood00berkrich_djvu.txt
- ^ “Obituary of Ralph Berkowitz”. The Albuquerque Journal (2011年9月2日). 2011年9月5日閲覧。
- ^ http://www.bach-cantatas.com/Lib/Berkowitz-Ralph.htm
- ^ Steinberg, David (2010年9月27日). “Join party with Chamber Soloists”. Albuquerque Journal 2010年10月2日閲覧。
- ^ http://www.hbdirect.com/browse_classical.php?v[0]=performer&performer=B&do=specific_performer&specific_performer=Berkowitz%2C+Ralph