ラモン・ディアス
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2016年 | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ラモン・アンヘル・ディアス Ramón Ángel Díaz | |||||
愛称 | エル・ペラード(ハゲ) | |||||
ラテン文字 | Ramón Díaz | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1959年8月29日(65歳) | |||||
出身地 | ラ・リオハ州ラ・リオハ | |||||
身長 | 172cm | |||||
体重 | 68kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 左足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1978-1982 | CAリーベル・プレート | 123 | (57) | |||
1982-1983 | SSCナポリ | 25 | (3) | |||
1983-1986 | USアヴェッリーノ | 78 | (22) | |||
1986-1988 | ACFフィオレンティーナ | 53 | (17) | |||
1988-1989 | インテルナツィオナーレ・ミラノ | 33 | (12) | |||
1989-1991 | ASモナコ | 60 | (24) | |||
1991-1993 | CAリーベル・プレート | 52 | (27) | |||
1993-1995 | 横浜マリノス | 75 | (52) | |||
通算 | 499 | (214) | ||||
代表歴 | ||||||
1978-1979 | アルゼンチン U-20 | 6 | (8) | |||
1979-1982 | アルゼンチン | 22 | (10) | |||
監督歴 | ||||||
1995-1999 | CAリーベル・プレート | |||||
2001-2002 | CAリーベル・プレート | |||||
2004-2005 | オックスフォード・ユナイテッドFC | |||||
2007-2008 | CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ | |||||
2008-2009 | クルブ・アメリカ | |||||
2010-2011 | CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ | |||||
2011-2012 | CAインデペンディエンテ | |||||
2012-2014 | CAリーベル・プレート | |||||
2014-2016 | パラグアイ | |||||
2016-2018 | アル・ヒラル | |||||
2018 | アル・イテハド | |||||
2019 | ピラミッドFC | |||||
2020 | クルブ・リベルタ | |||||
2020 | ボタフォゴFR | |||||
2021-2022 | アル・ナスルSC | |||||
2022-2023 | アル・ヒラル | |||||
2023- | CRヴァスコ・ダ・ガマ | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ラモン・アンヘル・ディアス(Ramón Ángel Díaz, スペイン語発音: [raˈmon ˈaŋxel ˈdi.as]、1959年8月29日 - )は、アルゼンチン・ラ・リオハ州ラ・リオハ出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。元アルゼンチン代表。現在はCRヴァスコ・ダ・ガマの監督を務める。
選手時代経歴
[編集]初期経歴
[編集]父親はCAリーベル・プレートのファンで、リーベルのストライカーアンヘル・ラブルナにちなんで、アンヘルと名付けられた[1]。リーベルのユースを経て、1978年にトップに昇格、8月13日のCAコロン戦でデビュー[1]。1週間後のキルメスAC戦で初ゴールを挙げた[1]。1979年に初めてリーグ優勝を経験した[1]。リーベルでの4年間で、202試合で61得点を挙げた[1]。
1979年、U-20アルゼンチン代表の一員として出場したワールドユース選手権では、アルジェリア戦でハットトリック、準決勝のウルグアイ戦で1ゴール、決勝でも1ゴールを挙げ、大会得点王に輝いた[1]。最優秀選手に選ばれたディエゴ・マラドーナと共にチームを優勝に導く立役者となる。この活躍が認められ、翌1979年9月12日の西ドイツ戦でフル代表デビューを果たし、1980年12月16日スイス戦でフル代表初ゴールを決めた[2]。
1982年にはスペインで行われたワールドカップにも出場、ブラジル戦ではゴールを記録[1]。しかし、マラドーナの退場などによりこの試合に敗れ、チームは2次リーグで姿を消すこととなった。その後も、ヨーロッパの舞台で高いレベルのプレーを続けていたが、これがディアスの最後の代表戦となった[1]。代表の決定力不足が指摘され、ディアスの復帰要望が国民から出たこともあったが、結局復帰することはなかった。当時のアルゼンチン代表は、マラドーナを中心としたチームづくりを行っていたため、確執のあったディアスが外されたという説も根強いが、マラドーナは著書でそのことを否定、逆に1986年大会、1990年大会のメンバーに呼ぶべきだと代表監督に主張したとしている[3][4]。1990年のワールドカップメンバーに入れるか、カルロス・ビラルド監督が真剣に検討していたともされる[1]。
ヨーロッパでのプレー
[編集]1982年、オマール・シボリがSSCナポリの会長に獲得を勧めとこともあり、ナポリへ移籍した[1]。1982年9月26日USカタンザーロ戦でセリエA初ゴールを決めた[1]。イタリアでの初めてのシーズン年間38試合で8ゴールに終わるなど、いい結果を残せず、1983-84シーズンはUSアヴェッリーノに貸し出され[1]、マラドーナと入れ替わる様にナポリを離れた。アヴェッリーノでは、1985-86シーズンにリーグ戦のみで10ゴールを挙げたが[1]、チームの経済状態の悪さから、1986年、ACFフィオレンティーナに移籍することとなった[1]。そのシーズン、再びリーグ戦で二桁ゴールを挙げた[1]。
1988-89シーズン、インテルナツィオナーレ・ミラノに移籍、ローター・マテウス、アンドレアス・ブレーメらとともにプレー、特にアルド・セレーナと優れた関係性のツートップを形成した[1]。セレーナは得点王を、ディアス自身は12得点を決め[5] 、チーム8年ぶりのスクデット獲得に貢献[3]。しかし、十分活躍しながらも、翌シーズンからユルゲン・クリンスマンが加入することになると、チームから放出された[1]。
1989-90シーズン、フィオレンティーナが複帰へ向けて動いていたが、アーセン・ベンゲル率いるASモナコに移籍した[1]。9月22日のFCジロンダン・ボルドー戦で移籍後初ゴールを含む2ゴールを決めるなど[6]、15ゴールを決め、得点ランキング5位となった。1990-91シーズンのクープ・ドゥ・フランス決勝、オリンピック・マルセイユ戦では途中出場からジェラール・パシのゴールをアシスト[6] 、1-0と破り優勝に貢献した[3]。
母国復帰
[編集]1991年からはアルゼンチンの古巣CAリーベル・プレートに復帰、20ゴールを決め、リーグ得点王を獲得し、リーグ優勝に貢献した。
Jリーグ横浜マリノスでの活躍
[編集]1993年にJリーグの横浜マリノスに加入。Jリーグ開幕戦となったヴェルディ川崎戦で決勝ゴールを決めた[7]。6月26日のジェフユナイテッド市原戦、6月30日の浦和レッドダイヤモンズ戦と、Jリーグで初めて2試合連続ハットトリックを決め、12月8日の横浜フリューゲルス戦でもハットトリックを決めるなど[8]、1シーズン目は特に木村和司との良い連携でゴールを量産[9]、32試合で28ゴールを挙げ、Jリーグ初代得点王、Jリーグベストイレブンに輝いた。2年目の1994年も主力として4月13日名古屋グランパスエイト戦でハットトリックを決めるなど、年間23ゴールを決める活躍をした。
1995年、ホルヘ・ソラーリ新監督と対立し、6試合に出場したのみでチームを退団、そのまま現役を引退することとなった[10]。4月12日の浦和レッドダイヤモンズ戦で決めたゴールは[11]、現役最後のゴールとなった。Jリーグでは在籍中、通算4回のハットトリックを達成した[8]。
2019年、横浜F・マリノスが約15年振りにJ1優勝を果たすと、自身のSNS上で古巣を祝福した[12]。
指導者経歴
[編集]引退後にはCAリーベル・プレートの監督に就任、エンソ・フランチェスコリ、アリエル・オルテガらと共にリーグ優勝だけでなく、1996年にリーベルに10年ぶりとなるコパ・リベルタドーレス優勝、1997年にはスーペルコパ・スダメリカーナ優勝をもたらした[3]。ホルヘ・ソラーリとはウマが合わなかったディアスだが、ホルヘの甥であるサンティアゴ・ソラーリをデビューさせた。
2014年12月4日、パラグアイ代表の監督に就任した[13]。2016年に就任したアル・ヒラルでは、国内リーグと国王杯で優勝、2017年のAFCチャンピオンズリーグではチームを決勝に導いたが決勝で浦和レッドダイヤモンズに敗れた。
2020年11月6日、ボタフォゴFRの監督に就任。だが健康上の問題により、1試合も指揮を執ることなく11月27日に退任した[14]。
2021年、アル・ヒラルの監督に復帰。AFCチャンピオンズリーグ2022では決勝に進出するも、またも浦和に敗れ準優勝となり、直後に監督を解任された[15]。
2023年7月、ブラジルのCRヴァスコ・ダ・ガマの監督に就任した[16]。
人物
[編集]利き足の左足でのシュートを得意とし、ほとんどのゴールを左足で決めた[17]。
ディエゴ・マラドーナとの仲について、1993年のインタビューでは、「犬猿の仲と言われるが、あながち間違いではない、ただ、変に対抗意識を持っているのはマラドーナの方で、出来るだけ自分に会わないようにしていて、同じイタリアでプレーしていた時も挨拶すら交わしたことはなかった。自分はマラドーナに対して特に悪い感情を持っている訳ではない、自分とは比べられない程のスターであるのだから自分に対して対抗意識を持つ必要はないのだが。」と語っていた[18]。
アルゼンチンの大統領であったカルロス・メネムとは出身地が同じで親友であった[18]。
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
アルゼンチン | リーグ戦 | リーグ杯 | アルヘンティーナ杯 | 期間通算 | |||||||
1978-79 | リーベル・プレート | プリメーラ | 20 | 8 | |||||||
1979-80 | 43 | 23 | |||||||||
1980-81 | 43 | 22 | |||||||||
1981-82 | 17 | 4 | |||||||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1982-83 | ナポリ | セリエA | 25 | 3 | |||||||
1983-84 | アヴェッリーノ | 24 | 7 | ||||||||
1984-85 | 27 | 5 | |||||||||
1985-86 | 27 | 10 | |||||||||
1986-87 | フィオレンティーナ | 29 | 10 | ||||||||
1987-88 | 24 | 7 | |||||||||
1988-89 | インテル・ミラノ | 33 | 12 | ||||||||
フランス | リーグ戦 | F・リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
1989-90 | モナコ | ディヴィジョン・アン | 28 | 15 | |||||||
1990-91 | 32 | 9 | |||||||||
アルゼンチン | リーグ戦 | リーグ杯 | アルヘンティーナ杯 | 期間通算 | |||||||
1991-92 | リーベル・プレート | プリメーラ | 31 | 20 | |||||||
1992-93 | 21 | 7 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1993 | 横浜M | - | J | 32 | 28 | 5 | 3 | 3 | 0 | 40 | 31 |
1994 | 37 | 23 | 3 | 1 | 4 | 3 | 44 | 27 | |||
1995 | 6 | 1 | - | - | 6 | 1 | |||||
通算 | アルゼンチン | プリメーラ | 175 | 84 | |||||||
イタリア | セリエA | 189 | 54 | ||||||||
フランス | ディヴィジョン・アン | 60 | 34 | ||||||||
日本 | J | 75 | 52 | 8 | 4 | 7 | 3 | 90 | 59 | ||
総通算 | 499 | 224 |
代表歴
[編集]- アルゼンチン代表 1979-1982
- 1979年 - ワールドユース・日本大会 優勝
- 1980年 - コパ・デ・オーロ グループリーグ敗退
- 1982年 - ワールドカップ・スペイン大会 2次リーグ敗退
試合数
[編集]- 国際Aマッチ 22試合 10得点(1979年-1982年)[19]
アルゼンチン代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1979 | 1 | 1 |
1980 | 9 | 4 |
1981 | 4 | 1 |
1982 | 8 | 4 |
通算 | 22 | 10 |
タイトル
[編集]選手として
[編集]クラブ
[編集]- リーベル・プレート
- プリメーラ・ディビシオン : 1979M, 1979N, 1980M, 1981N, 1991-92A
- インテル・ミラノ
- セリエA : 1988-89
- モナコ
- クープ・ドゥ・フランス : 1990-91
代表
[編集]- U-20アルゼンチン代表
個人
[編集]- プリメーラ・ディビシオン得点王 : 1991-92A
- Jリーグ得点王 : 1993
- Jリーグベストイレブン : 1993
- Jリーグチェアマン感謝状 : 1995
指導者として
[編集]- リーベル・プレート
- プリメーラ・ディビシオン : 1996-97A, 1996-97C, 1997-98A, 1999-2000A, 2001-02C, 2013-14F, 2013-14SF
- コパ・リベルタドーレス : 1996
- スーペルコパ・スダメリカーナ : 1997
- サン・ロレンソ
- プリメーラ・ディビシオン : 2006-07C
- アル・ヒラル
- サウジ・プロフェッショナルリーグ : 2016-17
- サウジ国王杯 : 2017, 2023
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “Ramón Angel Díaz, 'El puntero triste': bomber implacabile e allenatore di successo”. GOAL (2022年3月25日). 2023年7月29日閲覧。
- ^ Ramon Diaz player profile-transfermarkt
- ^ a b c d “Ramon Diaz: Globe-trotting thoroughbred commits to Oxford cause”. Independent.co.uk. 2018年3月3日閲覧。
- ^ “Ramon Angel Diaz”. Ramon Diaz.com. 2018年3月3日閲覧。
- ^ Gianni Mura (30 maggio 1989). “7,5 a Berti (escluso il look)”. la Repubblica 30 ottobre 2016閲覧。
- ^ a b “Ramon Diaz AS Monaco”. www.transfermarkt.com 20 August 2020閲覧。
- ^ Jリーグ開幕から25年…記念すべき第1節を写真と動画で振り返る-サッカーキング編集部 2017.5.15
- ^ a b ハットトリック一覧-Jleague Data site 2018年2月10日
- ^ Jサッカーグランプリ Jリーグイヤーブック1993 62ページ、104ページ
- ^ ラモン・ディアスのシュートが、 わかっていても止められなかった理由-Sportiva
- ^ “’95Jリーグサントリーシリーズ 第8節第1日”. j-league 17 April 2020閲覧。
- ^ “「日本人はインテリジェント」J初代得点王が語った日本サッカーの未来――あの助っ人たちの“いま”【ラモン・ディアス】”. j-league 3 November 2020閲覧。
- ^ サッカーキング (2014年12月5日). “Jリーグ初代得点王のラモン・ディアス氏、パラグアイ代表監督就任”. 2014年12月5日閲覧。
- ^ フットボールチャンネル (2020年11月28日). “本田圭佑所属ボタフォゴ、Jリーグ初代得点王の監督が一度も指揮を執らず退任”. 2020年11月28日閲覧。
- ^ アル・ヒラルの前監督ラモン・ディアス氏、ブラジル2部で指揮へ…契約前から練習に参加? - 超WORLDサッカー!・2023年7月15日
- ^ J初代得点王のラモン・ディアスがブラジルの名門率いて手腕を発揮! ヴァスコ・ダ・ガマが降格圏から急浮上 - SOCCER KING・2023年9月27日
- ^ “ラモン・ディアスのシュートが、わかっていても止められなかった理由”. web Sportiva. (2020年3月27日) 2024年4月14日閲覧。
- ^ a b サッカーダイジェスト 1993年5月1日 P.36-37
- ^ ラモン・ディアス - National-Football-Teams.com
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ラモン・ディアス - National-Football-Teams.com
- ラモン・ディアス - Soccerway.com
- ラモン・ディアス - FootballDatabase.eu
- ラモン・ディアス - WorldFootball.net
- ラモン・ディアス - Transfermarkt.comによる選手データ
- ラモン・ディアス - Transfermarkt.comによる指導者データ
- ラモン・ディアス - FIFA主催大会成績
- ラモン・ディアス - J.League Data Siteによる選手データ
- ラモン・ディアス - レキップ
- ラモン・ディアス - TheFinalBall.com
- ラモン・ディアス (@ramondiaz9dt) - X(旧Twitter)