ラニエーリ・ダズブルゴ
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ラニエーリ Ranieri | |
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アズブルゴ=ロレーナ家 | |
ラニエーリ大公(1840年) | |
全名 |
一覧参照
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称号 | エスターライヒ大公 |
出生 |
1783年9月30日 トスカーナ大公国、ピサ |
死去 |
1853年1月16日(69歳没) オーストリア帝国、ボーツェン |
埋葬 | オーストリア帝国、ボーツェン、マリア・ヒンメルファールト大聖堂 |
配偶者 | マリーア・エリザベッタ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ |
子女 |
一覧参照
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父親 | レオポルト2世 |
母親 | マリア・ルドヴィカ |
役職 | ロンバルド=ヴェネト副王 |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
ラニエーリ・ダズブルゴ(イタリア語: Ranieri d'Asburgo, 1783年9月30日 - 1853年1月16日)は、ロンバルド=ヴェネト王国の初代副王(総督)。ドイツ語名はライナー・フォン・エスターライヒ(Rainer von Österreich)。
生涯
[編集]トスカーナ大公レオポルド1世(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)の十男としてピサで生まれる。
1820年5月28日、プラハにおいてカリニャーノ公女マリーア・エリザベッタ(カルロ・エマヌエーレの娘)と結婚した。
ラニエーリは1818年から1848年までロンバルド=ヴェネト王国の副王を務めた。彼の置かれた立場はわずかな行政責任と、自身と妻がミラノにおけるオーストリア宮廷の長と主張できるという許可であった。
1848年1月18日、ウィーンから遠くなく、政府との通信にも便利なヴェローナへと移り、ミラノを離れた。ミラノとモンツァの宮殿はマクシミリアン大公が9月に到着するまで無人のまま放置された。1848年3月17日、ミラノの5日間の前夜にチロルへ移った。
1853年、ボーツェンで没した。遺体は後に没したマリーア・エリザベッタとともにボーツェンのマリア・ヒンメルファールト大聖堂に埋葬された。
子女
[編集]マリーア・エリザベッタとの間に以下の6男2女を儲けた(イタリア語名で記す)。
- マリーア・カロリーナ(1821年 - 1844年)
- アデライデ(1822年 - 1855年) - マリーア・アデライデと改名し、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と結婚。ウンベルト1世を産んだことにより、ラニエーリはイタリア王家全員の先祖となった。
- レオポルド・ルイージ(1823年 - 1898年)
- エルネスト・カルロ(1824年 - 1899年)
- シジズモンド・レオポルド(1826年 - 1891年)
- ラニエーリ・フェルディナンド(1827年 - 1913年)
- エンリコ(1828年 - 1891年) - 1868年、レオポルディーネ・ホフマン(ヴァルデック男爵夫人)と貴賤結婚した。
- マッシミリアーノ(1830年 - 1839年)